ぞうきんの臭いの蒸気
小学生の時、集団登校をさせられた。朝の弱い私はいつも皆を待たせ、気まずい思いをしていた。私のことなんてほっといて先に行ってほしいのに、年長の班長さんが迎えにくる。出て行かざるを得ない。
今の子供は集団登校なんてないんでしょ?いいなあ。
通学路は決まっている。
小さい畑のそばを通る。冬はつましいビニールハウスが作られるので、その破れたところに手を入れてあたためる。破れが大きくなる。
小さい子は犬の糞を踏んでしまう。それが柔らかい時は大惨事である。大泣き、上級生が面倒を見る。
桶に肥溜がある。雨の日は肥溜があふれそうになる。たいがいの子供が石を投げ入れ、返りをいかに避けるかといった遊びをする。ぼちゃん。キャー。
さて、問題の匂いについて。畑のあとは、大きな、塀の高い工場の横の暗い道を通らなければならない。何を作っているのかわからないが、工場の壁にある管からプシュウと勢いよく蒸気がふき出す。それがものすごく臭い。腐ったぞうきんの臭いがする。管はプシュー、プシュー、腐った臭いを吐き出し続ける。工場の中はどうなっているのか。小学生には想像がつかなかった。
その工場は、いったい何をしていたんだろう。
「すごいニオイ」#ジェットウォッシャー「ドルツ」
私が攘夷派になった日
私は大阪府堺市育ちである。中学校でのある日の放課後、女子何人かと教室で話していた。私は稲吉の隣に座り、ぼーっと考え事をしていた。「稲吉、パーマにおうてへんなあ、あれ?ヒゲ濃いなあ」。
いきなり稲吉に力いっぱい横っ面を張られた。「お前、何見てるねん!」と言う。唖然、返す言葉も見つからない。
瞬時に「何やっとんねん!!」といって、うしろにいた城井さんが机を乗り越えて稲吉に襲いかかり乱闘となった。もう、サル山である。
しかし、城井さんがいなければ私はもっとしばかれ、そののち金品をせびられていたことだろう。ありがとう城井さん。元気かな。
学校の前の、元はお堀だったドブ川は潮の満ち引きで一応水量が増減する。それは泥沼のようであり、ボコボコとガスが湧いていた。近所のザビエル公園は傷んでおり、その上不良のたまり場だ。市は、すっかり公害と汚職の街となっていた。
1.暗い図書室にて
そんなこんなで、私は消極的な学校生活を送っていた。残念なことに、助けになるはずの図書室がなってない。部屋が暗すぎるし、本が古すぎる。読みたい本はまずないので、図書室に通うこともあまりなかった。それでもある日、一冊の本を見つけた。そんなに厚みはなく、昭和前半のねっちりした明朝体で印刷されている。中を覗いてみた。多分この学校では一生読まれない本だろうなと思った。
それは「郷土の歴史」といった類の本だった。そんなことにはまったく興味がないのだが、聞いたことのない変なことが書いてあるので混乱し、やめられなくなってしまった。近所の大浜というところに水族館があったとか、灯台があった、など。
そして、ある事件が気に入った。
明治の初めのこと、堺で白人たちが狼藉をはたらき、それを止めるため侍たちは白人たちを切り殺した。それは大きな事件として扱われ、侍たちはその責任をとるべく切腹を言い渡された。切腹は堺の妙国寺で、白人の責任者・日本人の責任者の立ち会いのもと行われた。切腹は一人ずつ順々に行う。侍が次々と切腹し介錯され、しまいには裂いた腹から腸をつかみ出し白人を恫喝する者が出たりと、それはもう残酷な場面が続いた。切腹予定人数の半分くらいのところで白人は顔色が悪くなって「もうやめろ」と言ったという。そして、そうそうに沖に止めてある船に戻ってしまった。そのあとに切腹準備していた人は助かったという。のちに知ったが、これを「堺事件」と呼ぶそうだ。
妙国寺といえば、学校のすぐそばである。天王寺まで行けるチンチン電車の駅の名前でもある。何気なく通りすぎていたが、あそこでそんな事件があったとは。
白人の前で次々に切腹していく勇敢で野蛮な日本人の姿、あまりの壮絶さにビビる白人の姿が目に浮かび、感動したのである。多分そのころ社会科の授業で『不平等な日米修好通商条約』を知り、「ハリスめ…」などと腹を立てていたのであろう。
その時、私は攘夷派になった。
ところが攘夷派になったからといってこれといった活動をするわけでもなく、大好きな洋楽を聴き、洋画や洋ドラマを見つづけていた。
ただ、一つだけ活動をした。妙国寺で亡くなった侍の墓がこれまた近所の宝珠院にあるので、学校帰りに見に行こうと思ったのだ。学校から出ようとすると赤坂さんが「どこいくん?」という。赤坂さんに攘夷の話をしてもナァと思いつつ、そんなこんなで切腹した人の墓を見に行こうと思っているというと「うちもいくわ、おもしろそうやな」と言う。おもしろいわけがない。家に帰りたくない事情があったのだろう。
という訳で、赤坂さんと私は宝珠院に向かった。門はかたく閉ざされていた。そこで赤坂さんは呼び鈴をピンポンピンポン押し続けた(連れてきてよかった)。やっと坊さんが出てきたので、私が話を聞きたいと言うと、もう遅いから(まだ5時くらいよ)帰りなさいと言い、そそくさと戻ってしまった。
中学生に対してなんと夢のない言葉。その日、私の攘夷熱は冷めてしまった。その坊主は二人の中学生の勉学への足掛かりを摘んだのである。
しかし、攘夷の気持ちはしぼんでしまったものの、どこかに潜伏したようである。
2. 堺事件
では、「堺事件」とは実際はどんなものだったのだろう。
1868年(旧暦)
1/7
大坂開城とともに大坂町奉行が崩壊して、奉行所の同心たちは逃亡した。
1/11
土佐藩六番隊が、堺の警護のために堺に来た。
1/11
神戸事件起こる(備前藩兵が隊列を横切ったフランス兵を襲った。)
1/16
土佐藩六番隊箕浦元章に神戸事件の情報が入った。箕浦、怒り、在京阪の土佐藩兵力を検討する。
2/8
土佐藩八番隊が堺に到着。
2/15
3時頃:
フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」は、駐兵庫フランス副領事M・ヴィヨーと臨時支那日本艦隊司令官ロアら一行を迎えるべく堺港に入り、同時に港内の測量を行った。この間、士官以下数十名のフランス水兵が上陸し市内を遊びまわる。
夕刻:
近隣住民の苦情を受け、六番隊警備隊長箕浦元章(猪之吉)、八番隊警備隊長西村氏同(佐平次)らは仏水兵に帰艦を諭示させたが言葉が通じず、土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとした。仏水兵側は土佐藩の隊旗を奪った挙句、逃亡しようとした。
土佐藩兵側は咄嗟に発砲。和泉国堺栄橋通・旭町(現・大阪府堺市堺区栄橋町・大浜北町)一帯で銃撃戦となり、土佐藩兵側が仏水兵を射殺または、海に落として溺死させ、あるいは傷を負わせた。
2/16
遺体引き渡し。死亡した仏水兵は11名でいずれも20代の若者であった。
2/19
山内容堂は、仏公使ロッシュに藩士を処罰する意向を伝えた。ロッシュは以下の五か条を要求した。
- 下手人たる土佐藩隊長以下隊員を、暴行の場所に於いて、日仏両国の検使立会の上、斬刑に処すること
- 賠償として、土佐藩主(山内豊範)は15万ドルを支払うこと
- 外国事務に対応可能な親王がフランス軍艦に出向いて、謝罪の意思を表すこと
- 土佐藩主も自らフランス側に出向いて謝罪すること
- 土佐藩士が兵器を携えて開港場に出入りすることを厳禁すること
明治政府は戊辰戦争のために余力がなく、開戦すれば敗北することは目に見えていた。結局ロッシュの要求を受けざるをえなかった。
2/23
死刑執行
最初は介錯がうまくいかず何度も切りつけるという残酷さ。
藩士たちは自らの腸をつかみ出し、居並ぶフランス兵を大喝した。
(腸をちぎって投げたという話もあるが、疑わしい。)
立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールは、
(フランス人の被害者数と同じ)11人が切腹したところで中止を要請し、結果として9人が助命された。一説に、夕方になり日暮れるに至り、軍艦長は帰途における襲撃を恐れたからであるという。本人の日誌によれば、侍への同情も感じながら、この形での処刑はフランス側が望むように戒めになるどころか逆に侍が英雄視されると理解し中断させたそうである。
2/24
明治天皇とロッシュが手打ち。
2/25
2/30
ロッシュは御所に参内予定であったが、京都市繩手通りで打開事件に憤激した攘夷志士に襲撃され、延期となった。
その後
処刑を免れた橋詰愛平ら9人は、土佐の渡川(四万十川)以西の入田へ流された。その後明治新政府の恩赦により帰郷した。遭難したフランス人の碑は神戸市立外国人墓地に建てられた。宝珠院に置かれた処刑された11人の墓標には多くの市民が詰めかけ「ご残念様」と参詣し、生き残った九人には「ご命運様」として死体を入れるはずであった大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかったという。
むごい話である。死んだ若いフランス兵も気の毒だが、堺を守ったのに切腹させられた侍、賠償金の要求、やくざに付け込まれたようなものである。
アベル・デュプティ=トゥアールは気分がわるくなってストップさせたというが、残念ながらちがったようだ。ギロチンを作ったフランス人が、切腹にビビるわけがない。
3.数々の外国人殺人事件
年表にしてみると、ペリーが来日してから明治維新までの間に、白人に対する傷害・殺害事件が毎年のように起きていることがわかる。殺された白人が特に大暴れをしたなどの例は少なく、行く手を遮るためとか、酔って寝ていたとか、そんなことで切られた。切った侍は処刑され、幕府が賠償金を要求されたりもした。侍は、外国人が日本にいること自体が許せなかったのである。無茶振りする白人に対する抵抗運動であり、テロである。
当時の日本人は相当冷静さを失ったのだと思う。皆がどうしてよいかわからない、混乱した時代だったのだ。
1866年の鳶の小亀事件だけは、一般市民が起こした事件である。横浜公園にあった遊郭で、フランス水兵二人が乱暴をはたらいた。見かねた力士の鹿毛山長吉が取り押さえ、駆けつけた鳶職の亀吉が鳶口で殴打、1人を即死させた。亀吉は下手人として処刑され、鹿毛山は追放された。小亀の処刑前の市中引き回しは鳶仲間と遊廓の芸者が総出となって死出を見送る盛大さだったという。横浜市の願成寺に亀吉の墓があり、また、くらやみ坂には外国人殺傷事件で処刑された人々の墓があるという。折をみてお参りにいこうと思う。
そして、アメリカはたいしたものだ。南北戦争の前夜、インディアンから土地を奪い奴隷をいじめているさなかに、わざわざ日本にまで来たのである。強欲である。
4.攘夷の心?
そんなことで、いまだに私は在日白人集団を見ると、不愉快な気持ちになる。多分ハロウィンの渋谷に行こうものなら、倒れてしまうだろう。白人そのものが嫌いなわけではないが、彼らは自分の国でやったら顰蹙を買うことを、見逃してもらえる日本で行っているのではないか?という偏見を持っているのだ。(それがキリアン・マーフィーなら違ってくるが)
そして、ふと気が付くと、特に嫌米になっている時がある。
…ハリスのせいか?
「わんぱくフリッパー」の見すぎか?
「奥様は魔女」のせいか?
そうだ、ダーリンは大した仕事をしていないのに、ずいぶん素敵な家にすんでいるなあと思ったものだ。そういえば、サマンサの母はマサチューセッツ州セイラム出身の魔女の家系で、セイラムは17世紀終盤に魔女裁判が行われたところである。関係なかった。Salemというたばこもあったが、日本専売公社が日本たばこ産業となったときには米国たばこへの関税は撤廃された。米国のたばこを輸入するために民営化したようなものである。やはりここにもゴリ押し外交の影がある。
一方、私は『猿の惑星・征服』が好きだ。あれを見て、おさるの味方をしない人はいないだろう。虐げられているおさるたちが人間の社会に抵抗を始め、シーザーが台頭していく。グッとくる。しかしアメリカの映画だ。猿は英語を話している。
アメリカ人は何であんな面白い映画を作れたのだろう?どうしてアメリカ人はあの映画を観たのだろう?まさか自分たちが猿側だと思っているわけではあるまい?
また、日本人はいつもおさるの立場か?
人を高揚させる言葉や映像には、裏があることを忘れないようにしなければ。
こんなことを書いているけれども、私は右翼でもネトウヨでも尊皇でもテロ信奉者でもない。江戸時代がよいとは思わないし、特に敗戦前の日本はすごくよかったなどとは絶対思っていない。ただ、劣等感と自尊心(これをナショナリズムというか?)がこんがらがってモヤモヤしたものが心の中にあるだけだ。
けれども、虐げたことをすぐ忘れてしまう人がいまいましい。何が『美しい国』なんだか。ハリスと言えば伊藤と唱えるようにしようと思う。私のことは「攘夷派フェミニスト」とでも呼んでください。
日本が当時の欧米に搾取されつくされなかったのは、身を挺して戦った藩士たちのおかげもあるかもしれないなあとおもうのである。皆、必死だったのである。事件はまだ旧暦の二月であったが、桜の季節が来ても、殿様も武士も町人も「桜を見る会」には出席しなかっただろう。
<追記>
Webで検索したところ、『堺市史』(昭和5年刊、昭和52年復刻 清文堂出版)が見つかりました。https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/2714005100
多分私が見つけた本は、この本もしくはこの本のダイジェスト版だったと思われます。面白いところ、読めるところだけ拾い読みしたのだと思います。
こういうものをネット上で見られるのは、素晴らしいことだと思います。
Christ Church の女
嫌米な今日この頃。それなのに、なぜか私はNew Zealandに観光に来てしまった。
日本が暑くて息苦しく思えたのか。人口密度の少ない場所に行きたかったのか。TVでラグビーを見たからか。カンザス州のことを考え、農場に行きたくなったからか。
わからない。
New Zealandには5年位前に行ったことがあるのだが、その時は心神喪失状態だったようで、よいことはほとんど覚えていない。写真もほとんど残していない。撮る気にもならなかったのだろう。
オークランドからウェリントンへ行き、そこから船に乗り南島に行った。フィヨルドのような対岸が見えたことを覚えている。そこから電車に乗ったはずだ。新幹線のように味気ない電車の中で、コーヒーを買った気がする。そしてクライストチャーチに行った。
ひどい旅だった。
どこも静かなのだ。
数年前に地震がクライストチャーチを襲ったことをすっかり忘れていたのだ。
クライストチャーチの宿に近い駅に降りた。わずかな乗降客と迎えの車、それらが去ってしまうと、ロータリーにポツンと私とバンだけが取り残された。
10月でまだ薄ら寒く、暗い。バスはもちろんタクシーなど無い!宿へ電話すべきか、英語通じるか…歩くべきか…ピンチである。
幸いバンに荷物を積んでいるのが若い女性だったので、目的の宿に行くかと聞くと、宿にこれから一人連れて行くというようなこと?を電話してくれ、車に乗せてくれた。
車に乗ってみると、とても歩ける距離ではない。しかも平屋の家々以外は何もない。パチンコ屋や屋台はもちろんのこと、コンビニすらない。真っ暗…彼女がいてよかった。こういうのを地獄に仏というのだろうか。
宿の主は中国系マレー育ちNZ人で、気さくで親切な人だった。割り当てられた部屋も小綺麗で、整備中だけれども庭があり、のんびりできると思いうれしくなった。
ところが夜遅く、新しい客が来た。私と同じ歳くらいの日本人の女だった。共用台所でお茶を飲んでいたところに彼女がやってきて、私は彼女と話す羽目になった。
彼女はずいぶん高飛車に、この宿のセキュリティが心配だという。宿の主人はちゃんと玄関の鍵のロックの仕方を教えたはずだ。ねえ、どう思う?と聞かれるのでまあそうかねえなんて濁していたら、近所に住んでいる宿主に電話して彼を呼び出した。彼女はロックにケチをつけて何度もチェックさせた。真夜中にである。
翌日、彼女はまだ宿にいた。私はぼーっとしていたいのに話しかけてくる。
ー 私はベルギーから来ました。夫の仕事の都合で家族とベルギーに住んでいます。
ー ふーん。
ー 日本人って差別されていると思うでしょ?違うのよ。目があって、ニコッとすれば向こうも微笑んでくれるよ。
ー ほぉ。
ー 今回はNZに口座を開きに来たの。
ー はぁ。(このあたりから様子がおかしいと思いだした。)
ー 福島の地震が起きる直前、虫の知らせか、突然子供を連れてハワイに行ったの。私は正解だったわ。
ー???
ー もう日本には住めないと思って、NZに土地を買うことを考えているの。
口座開くのに地震で壊れたクライストチャーチに来るとは?非居住者NZ $預金とかいうのかね?
宿の主人が「こういうのがあるよ」と言って日帰りツアーを紹介してくれた。ロード・オブ・ザ・リングのロケ地だという。ほぼ興味はないのだが、その女と日がな変な話をするのも嫌なので、行くことにした。そしたら彼女も行くと言った。
小さいバスでの乗合ツアーだった。ツアー自体は牛や羊のいる山に連れて行かれ、ロケ現場まで歩くというものだった。上の方が本命らしいが、根性のない私は麓でブラブラし牛の糞を踏んでいるほうを選んだ。ツアーには英語を話す中国系の夫婦もいた。彼女は彼らに自己紹介し…確かにヨーロッパの人の中にはいきなり自己紹介をする人がいるが…ツアー中ずっと旦那さんに話しかけていた。私がバスに戻るとすでに奥さんが座っていたので、私は「あの人変よね」と言ってやった。しかし奥さんは苦笑いしただけだった。
その彼女とはメアドの交換をすることもなくお別れした。後日宿主が日本の女は無茶だ、夜中に呼び出された、ということをSNSに書いていて、悲しくなった。まあ、一晩に二人も変な日本人の女が来たのだから仕方あるまい。
その後、クライストチャーチからオークランドまでどのようにして戻ったのかまったく思い出せない。ちゃんと日本に帰ってこれたのだから、NZは安全な国である。
クライストチャーチの街に行ったとき、建物は無残に破壊されており、主要なところはフェンスの向こうとなっていた。つまり、観光に行くべきではないところに行ってしまったのだ。
件の彼女でもいいから話したい、そんな気分になった。
例によって宿までバスもないのでとぼとぼ歩いていると、街外れに瓦礫の山があった。NZってこんなところ?と思ったが、のちに考えると地震の被害のあと片付け中だったのだ。人の不幸って忘れるのよね。
今は復興していることを願うばかりだ。
この度は行かないけれど。
くさい話
10月12日、台東区の避難所がホームレスの入場を拒否した事件について気になったこと。
記事に対する、避難所の対応に賛同するSNSコメントはほぼ以下のようなものだ。
・臭くてとても一緒にいられない。
・シャワーを浴びてくるならよい。
・黴菌が赤ちゃんにうつったらどうするのだ。
・自分で選んだ道だから、入れなくても仕方ない。
・税金を払っていないから、入れなくても仕方ない。
どれも辟易する意見だが、何が間違っているかについては多くの人が指摘しているのでここでは話題にしない。
一番気になったのは「くさい」と言う言葉。くさい、くさい、くさい。いろんな人が「くさい」を書きまくっている。なんだ、これは。わざと言っているのか?
(実際ににおうのか不潔なのかは、今は関係ない。)
生ごみについて「くさい」と言ってもよいが、人について「くさい」というのはいかがなものか。人に対して「くさい」と言うとき、3つの場面が考えられる。
① 体臭・香水臭などが激しい人に対して、直接「あなたにおうわよ」と言う。(あまり言わないが。)
② 子どもがいじめる対象の子どもを「汚い」「くさい」といっていじめる。
③ 身分、職業、地域、民族が違う人を「くさい」といって差別する。
SNSの「くさい」は、この①②③全部を含んでいるように思える。
・本人が見ているかもしれないネット上で堂々と「くさい」という。
・「おまえはくさいからむこうに行け」という小学生並みのいじめ。
・無職で家がないので「くさい」と差別する。
これは屁が臭いとかいうのと訳がちがう。
この「くさい」という言葉は気を付けて使わないと、③の差別的「くさい」がまかり通った時代をよみがえらせてしまうのではないかと心配になるのである。差別的「くさい」は皆が努力し、長い時間をかけて無くしてきたと思っていた。しかし今、無邪気な発言のように見える「くさい」の裏には差別が見える。もしくは、わざと言葉について鈍感に振舞っていると感じる。
まるで言葉が考え方を先導しているかのようだ。これは言葉狩りではなく、懸念である。
そして、思い出したのが1980年代後半に起こった「アグネス」の論争である。
登場人物は、歌手のアグネス・チャン、中野翠、林真理子、上野千鶴子先生、竹内好美である。
アグネスが職場(テレビ局)に自分の子供を連れてきたという話をした(少し自慢げに聞こえた)ら、中野翠は「職場に子供をつれてくるなんて」と非難し、林真理子が「アグネスは文化人を気取っているが、仕事の厳しさをわかっていない」といった。
何故か上野先生まで出てきてアグネスの味方をした。
中野翠の文章は激しくて、品がなかった。
林真理子の文章は今と同様、自分の地位を自慢しながらの嫌味なものであった。
上野先生は、アグネスの味方をしていると言いながら、自分の言いたいことを言っていた。
竹内好美という人が締めていた気がする。
なんでこの話を書いているかと言うと、その論争の中で中野翠が書いた「アグネスの匂い」のような表現がかなり問題になったからである。中野翠はこの言葉のせいで相当たたかれていたように思う。「におい」という言葉が外国人差別だ、と誰かが突っ込んだのだ。(結末についてはすみません、よくわかりません。)
私が思うに「くさい」「におい」は人権と関わりのある、慎重に使うべき言葉なのである。
自分が「くさい」と書くときは、鼻で嗅ぐ匂いのことだけなのか?そのほかのことも含めているのか?考えたほうがよいと思うのである。
余談1:
それから30年、子育ては相変わらず厳しい様子だ。
子どもが減り老人が増え納税額も減った今になって、政府は子どもを産め、女性も老人も働けといい、さあ保育所をつくるし育児休暇もとろうねと言っている。遅い。
ある日、私は元職場の同僚男性に「(結婚した若い女性について)何故あの人は乳児を預けてまで働くの?」とセクハラな質問をした。結婚相手は上級サラリーマンだったし、彼女はキャリアを追いかけている感じではなかったからだ。
同僚は「二人で働かないとお金が足らないんですよ。」と言った。今の子育てにはお金がかかるのだそうだ。子どもが減ったら、学校は子どもの選び放題となり、学費も安くなると思っていた。
子どもはふえるだろうか…?
余談2:
アグネス・チャンはテレビで、「イスラムの挨拶は、あなたの上に平安を!という意味で、アッサラーム・アライコムといいます。」と言って挨拶していたが、ムスリムでもない人がその挨拶をするのを嫌がるムスリムもいる。彼女のそういうちょっとした無神経さは苦手である。
でもまあ、昭和の話である。
(2019/10/18)
「カンサス=トットリーンズ事件」3
これは、前回書いた「カンサス=トットリーンズ事件2」の続きである。
本題は、何故カンサスはイモ扱いされるのか、であるが、前回アメリカ大陸の歴史をさまよい、アメリカ合衆国ができてしまったところで力つきてしまった。今回はその続きである。今日こそカンサスに戻れるのでしょうか。
(詳細は過去のブログを参考にしていただければうれしいです。)
5.アメリカ合衆国ができてから
トマス・ジェファーソンは、「独立宣言書」草案を作った人である。
それってなんだっけ。
そこには「全ての人間は平等に造られている」、「生命、自由、幸福の追求は不可侵・不可譲の自然権である」と書かれているという。
立派なこと言ってるなあ。しかし、大した悪人である。
- 当然植民地生まれ、植民地育ち。
- 裕福な家の生まれ。
- 勤勉で、1日に15時間勉強したことも。
- 多くの学校に通い、西洋思想に通じていた。
- 法廷弁護士になり、黒人の弁護活動に熱心であった。
- そうはいっても、彼は大きな奴隷プランテーションを持っていた。
- 彼が建てた邸宅は「モンティチェロ」と呼ばれ、なんと世界遺産だ。
- 第三代目の大統領になったそうだ。肖像画ではなかなかハンサムだ。
かなり先進的なことを言う人だったようだが、「インディアン民族の強制移住」という民族浄化政策を立案した人だったのだ!
フレンチ・インディアン戦争や南北戦争で力を失いつつあった先住民に追い打ちをかける政策である。
【ジェファーソンのしたかったこと】
- 領土拡大。
【方法】
- 西方の白人のいない土地に先住民を移住させてしまう。 彼らが領土としている土地は白人入植者にとっては肥沃で魅力的な土地だから。
- すべての先住民と条約を結び、「国家」として保留地に定住させ、その独自の文化、宗教および生活習慣を捨てさせて、合衆国が監督する「部族政府」を設立させ、白人文化、キリスト教、および定住農耕生活を強制する。(同化政策)
- 先住民たちにそこを立ち退かせ、「年金(食糧)と引き換えに遠方の保留地に定住させる」。
- これに従わない場合、先住民部族は絶滅させる 。
【ジェファーソンの予測】
ジェファーソンは、狩猟採集生活を送る先住民達を農耕民として白人と同化させれば、彼らは白人との交易に経済的に依存するようになり、未払いの負債を返すために土地を手放すようになるだろう。と予測した。
【保留地】
「保留地」(Reservation)とは、将来すべての土地が合衆国のものとなるまで、内務省が先住民のために「特別に取っておいた土地」のこと。先住民族に西方の白人のいない保留地を与え、移住させてしまうためにある。
【絶滅政策の手始め】
- 1778年、合衆国と先住民との国家間条約の第一号は、合衆国独立に味方したデラウェラ族を中心とした先住民国家の組織を連邦認定するというものだった。
- 先住民との連邦条約を積極的に行い、保留地制度を推し進めた。
- チェロキー族やショーニー族といった連合国家を、その先祖伝来の土地からミシシッピ川以西へと強制的に追い出す。
- 当時ジョージア州でのチェロキー族は、アメリカ合衆国政府と彼らの領土権の保証条約を締結していた。しかし、ジョージア州が「もし西方に新しい土地を発見した場合」、米軍はジョージア州を全力で援助し、ジョージアからチェロキー族を強制的に追放するという内容も含まれていた。ジェファーソンはジョージア州と結託して先住民の権利を反故にしたのである。
- インディアンたちが同化政策に抵抗したならば、彼らをその領土から強制退去させ、白人のいない西部に強制定住させる。
【アメリカ人のわざとらしい誤解】
ジェファーソンを始め、白人たちは先住民部族の中の「酋長」たちを権限のある首長とみなし、彼らと条約を結べば全部族民はこれに従うものとして、和平委員会と酋長たちとを面会させ、条約の数々に署名させた。この「署名」とは、先住民に「チェック(✕印)」を書かせる、というものである。先住民は文字を持たない。 白人たちは酋長たちの署名をすべての条約の承認ととらえ、これに基づいて強制移住やその他先住民政策を推し進めた。
しかし酋長は「部族長」や「首長」ではなく、単に部族の中の「調停者」「世話役」「奉仕者」であった。先住民にとっては「酋長が紙に✕を書いたから見たこともない遠くの土地へ引っ越せ」と強要されても、納得できなかった。白人のゴリ押しは血みどろの「インディアン戦争」を生み、合衆国による民族浄化を激化させていった。
「酋長=リーダー」誤認説だが、私は違うと思う。白人は勘違いなどしていない、わざと誤解していたのであろう。酋長の権限がどうであれ、白人は自分に都合のよい理屈を作り、先住民を追い出せればそれでよかったのだから。
アメリカ独立宣言書で立派なことを書いている人がこんなことをしていたとは!
「全ての人間は平等に造られている」✕、「すべての白人は平等に作られている」〇
参考:トマス・ジェファーソン
日本が先の戦争で敗北したとき、アメリカ人は心の底で「日本人の民族浄化」を考えたんじゃないのか~?給食のパンとか牛乳、まずかったよな。最近の子供は給食で「ご飯」が食べられてうらやましいよ。
まあ、パンは根を張ってしまったが、牛丼屋や富士そばに若者が入っていくのを見ると、「ああ、えらいぞ!」と思うのである。
今度はトウモロコシのトルティーヤとか流行るのかしらね。
2.1848年、ゴールドラッシュ で踏み込まれる
ゴールドラッシュとは、新しく金が発見された地へ、金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到することである。狭義では、1848年ごろにアメリカ合衆国カリフォルニア州で起きたカリフォルニア・ゴールドラッシュを指す。
1850年までに容易に採掘できた金は既に取りつくされてしまい、採掘困難な場所から金を掘り出すことに関心が向けられた。アメリカ人は金を掘り出すのが次第に難しくなったことに直面して、いまだ残る採掘しやすい金鉱からの外国人排除を始めた。新しいカリフォルニア州議会は外国人坑夫の税金を月20ドルに設定する法律を成立させ、アメリカ人探鉱者は特にラテンアメリカ系や中国の坑夫に組織的な攻撃を始めた。
さらに、大勢の新参者が先住民の伝統的猟場、釣り場および食物採集地域から先住民を追い出した。自分の生活を守る為に坑夫を攻撃する先住民もいた。そうすると、先住民の集落は反撃された。銃を持たない先住民はしばしば虐殺された。ヤヒ族はそうした白人の虐殺によって根絶やしにされ、絶滅させられた部族のひとつである。
虐殺を免れた先住民達も、その食物採集地域に近付くこともできないままに、飢えて死ぬ者がでた。
参考:カリフォルニア ゴールド・ラッシュ
3.インディアン戦争で闘う!
【1862 ダコタ戦争】
南北戦争の間も白人と先住民族の抗争は続いていた。アメリカとダコダ・スー族の間に最初の大規模衝突が起こった。ダコタ・スー族は、狭い保留地に強制移住させられていたが、アメリカ政府の怠慢で、11年に渡って保留地管理事務所からの食糧配給が滞り、飢餓状態になっていた。
あるとき、狩りから戻る途中の4人の戦士がいざこざで白人農場主の一家を殺してしまい、部族内の合議の結果、窮状に不満のたまっていた他の戦士達に押し切られて交戦となり、ミネソタ州全土を覆う6週間の戦いとなった。500名以上のアメリカ軍兵士と入植者が死んだ。
この蜂起で死んだスー族の数は文献には残されていないが、戦争後に303名のスー族が殺人と強姦で告訴され、軍事法廷で死刑の宣告を受けた。死刑判決の大部分は減刑されたが、1862年12月26日、エイブラハム・リンカーンの指示によって、ミネソタ州マンカトで38名のダコタ・スー族戦士が絞首刑に処せられた。基本的に保留地政策の欠陥に原因があるこの「暴動」にも、リンカーン大統領は注意を払わなかった。合衆国の無関心によって、先住民はさらに飢えた。またリンカーンはミネソタ州からすべてのスー族を追いだすと宣言、スー族皆殺し政策をミネソタと共に行い、ミネソタの彼らの保留地を没収した。
【1864 サンドリーク虐殺】
悪名高い先住民虐殺。コロラド州南東部のシャイアン族とアラパホ族のティーピー(移動用住居 )のキャンプを民兵が襲い、およそ150名の男女、子供を殺し、男女の性器や頭の皮を剥いだ。サンド・クリークに住む先住民は連邦政府によってその時に住んでいる領土内での安全を保証されていたが、先住民に反感を抱く白人入植者が暴走したのである。シャイアン族はティーピーに白旗を掲げて不戦の意思を表していたのに、それは無視された。後に連邦議会による調査が行われ、先住民を虐殺した者に対して短期間ではあるが大衆の抗議が続いた。
【1876 リトルビッグホーンの戦い】
ダコタ・ゴールドラッシュがブラックヒルズに巻き起こった時に、最後のスー族戦争が起こった。ブラックヒルズ一帯は「ララミー砦の条約」ではスー族の不可侵領土だったが、金が出たあとは白人の荒らし放題だった。合衆国軍はついに条約を自ら破り、スー族の掃討作戦に出た。
カスター中佐はスー族、シャイアン族、アラパホー族総計1,500人が宗教儀式のためにリトル・ビッグ・ホーン河畔に野営しているのを見つけた。カスターは功を焦ってこれを奇襲し、「リトルビッグホーンの戦い」となった。本隊とは離れて行動していたカスター将軍の部隊は、戦術的な利点があり数的にも上回った先住民に全滅させられた。先住民戦士には、オグララ・ラコタ族の名高い戦士、クレイジー・ホースも参加しており、シッティング・ブル(戦には参加せず)の勝利の予言によって鼓舞されていた。
また、グレートプレーンズの先住民人口減少の背景には、バッファローの絶滅があった。平原の先住民達は衣食住の柱として4,000万頭を超えるバッファローに頼っていたが、1870年代から1880年代にかけて行なわれたMarket huntersと呼ばれる白人とカナダ民族による乱獲で、グレートプレーンズのバッファローは絶滅寸前(750頭)まで追い込まれた。グレートプレーンズでは先住民の生活は成り立たなくなり移住せざるを得なくなったのである。
南西部の広大な地域での紛争は1846年から1895年まで続いた。この地域のあらゆる非プエブロ諸族を巻き込み、スペイン系メキシコ人との紛争に続いた。ナバホ族とアパッチ族との紛争、軍は5,000名の兵士を投入した。この作戦でアパッチ族のジェロニモと24名の戦士、女子供が1886年に降伏した。なお、ジェロニモは酋長ではない。
【チェロキー族の涙の旅路】
各国政府は法律を定め、長い間、狭い保留地に先住民を押し込めて合法を装った。
先住民の領地で金鉱が見つかり地価が暴騰し、それに目をつけた大統領アンドリュー・ジャクソンは「インディアン強制移住法」を定め、アメリカ南東部に住んでいたチェロキー族、セミノール族、チョクトー族、クリーク族をインディアン準州(現在のオクラホマ州のオザーク高原近く)に移動させた。
厳しい冬の時期を陸路で、しかも多くの者は徒歩で1,000kmもの旅をさせられたために1万2,000人のうち8,000人以上が死亡した。のちに先住民の間では、この悲惨な事件を「涙の旅路」と呼ぶようになった。
【ナバホ族の涙の旅路】
ナバホ族も、約483km以上離れたボスケ・レドンドという灼熱不毛の地に徒歩で強制移住させられた。険しいサングレ・デ・クリスト山脈を越え、ニューメキシコ州をほぼ完全に横断するこの旅路は「ロング・ウォーク」と呼ばれる。彼らはそこで農耕を強制されたが、やせた砂漠の土地での農耕は不可能であった。
バルボンシート酋長は粘り強く異議申し立てし、1868年、部族は元の地に帰ることを許されたが、その理由は、ナバホの土地が白人にとって当時は価値のない砂漠だったからだ。この往復路で女・子供・老人を含めた数百人のナバホの民が死んだ。故郷には戻ったものの、そこにはすでに近隣のホピ族が住み着いてしまっており、ナバホ語での地名は失われてしまった。また、現在も続くナバホとホピの土地紛争の原因となっている。
先住民はアメリカ政府との間で一方的な条約に署名させられ、さらに政府側が一方的にそれを破ることを繰り返した。先住民の中には連邦政府の側について、抵抗する先住民を非難する者もあった。
こうした状況の中で、決して条約に署名しなかったラコタ族のクレイジー・ホース、開拓者を震え上がらせたアパッチ族のジェロニモらの抵抗は一定の戦果をあげたものの、結局は米国陸軍の兵力によって屈服させられた。
…まだあるんです…
4.フロンティアの消滅を宣言される
【先住民の抵抗の終わり】
1890年、サウスダコタ州ウーンデッド・ニーで、ミネコンジュー・スー族の「シハ・タンカ・バンド」に対し、米軍の第7騎兵隊が行った虐殺。兵士達はおよそ300名の非武装の老若男女の先住民を殺した。死亡した29名の兵士には、友軍の銃撃で死んだ者もいる。
本当にうんざりします。→ ウーンデッド・ニーの虐殺
ウンデッド・ニーの虐殺により、白人によるインディアン戦争は終結した。最終的には推定1,000万人いた先住民は白人の直接・間接虐殺により実に95%が死に絶えた。
【フロンティアとは】
19世紀にアメリカ合衆国が西に向けて領土を拡大する過程で、開拓の最前線の「文明と未開の境界線」をフロンティアと言った。
アメリカ合衆国のフロンティアは、1890年に消滅したとされている。つまり、もう開発するところが亡くなったということで、それはアメリカ先住民を駆逐したということになる。すべて奪ってしまったのだ。
このフロンティアの消滅と同時に、新たに海外領土・植民地を獲得するというアメリカ帝国主義の時代が開始されることとなる。 貪欲ですねえ!
殺されずに運よく生き延びた先住民は、荒野や山岳に指定されたリザヴェイションに押し込まれた。現在286あるリザヴェイションは、アリゾナやニューメキシコを除くと、あとは小さくひっそりとしている。‥‥市民権を与えられたのは遙か後の1924年のことであり、投票権に至っては第2次大戦後の1948年なのである。<猿谷要『物語アメリカ史』中公新書 p.122-3>
5.20世紀以降、さらに奪われる
【BIAの悪行】
1820年代に、連邦政府は「保留地」管理のために、アメリカ内務省直轄のBIA(インディアン局)を設立していた。保留地にはBIAの出先機関として「管理事務所」が置かれ、ここへ派遣された白人の保留地監督官が、保留地内のインディアンのすべての行いについて「監督・指導」するようになった。反抗的、不穏な部族や指導者は軍に呼ばれ、虐殺された。(シッティング・ブル、クレイジー・ホース、、、)
儀式のほとんどがキリスト教的でないとして弾圧・禁止され、シャーマンや占い師は殺害された。狩猟も禁止され、慣れない農業を押し付けられた。 「年金」として、保留地事務所より、肉牛などが支給されるはずだったが、BIAの保留地監督官によって戦略的に横領され、常に数が不足していた 。農業経験のない先住民達は飢え、冬をしのぐために種牛にまで手をつけざるを得ず、飢餓は年次倍増していった。
1950年代、合衆国は“ターミネーション”と呼ばれる連邦管理終結政策を遂行した。BIAは、部族による土地共有を根こそぎにしようと、保留地に住むインディアンを都市中心部に転住させる大規模な施策に着手する。これは部族の自治権を奪って、先住民諸部族を連邦と州の法律に従わせる同化政策の一種であり、新型の「清掃」政策であった。この転住政策は、政府が先住民への責務から逃れるための方策でもある。
1960年代、全米の先住民部族は絶滅的危機にあった。100を超える先住民部族が連邦条約を打ち切られ、保留地の使用を打ち切られ、路頭に迷うこととなった。都市部のスラムに流入した先住民たちは極貧の生活の中、白人社会の人種差別と暴力にさらされ、ささいな理由で刑務所に送られた。ミネソタ州の刑務所の囚人の7割は常に先住民が占めていたのである。
危機感はしだいにつのり、1968年代初期、刑務所暮らしを強いられた若いインディアンたちによって団体「アメリカインディアン運動」(AIM) が作られ、「レッド・パワー」運動が始まった。1960~1970年代は、オルタナティヴ・アメリカンの運動が盛んであった。
【ニクソン政権とレッド・パワー運動】
リチャード・ニクソン大統領は、こうしたインディアン達の権利回復要求交渉に対し、まともに耳を傾け取り組んだ。「レッド・パワー運動」とニクソン大統領とは切り離して語れない。ニクソンは1954年からのBIAの部族解体方針を打ち切り、メノミニー族、ピクォート族の復活を認めている。 アメリカ人の二重底。
1977年は、ニクソン政権の実行した宥和政策を次々に撤回したカーター政権によって、ニクソン以前の「インディアン根絶政策」の復活・総括が図られ、アメリカ上下両院議会で「保留地の解消」や、「インディアンの自治権剥奪」など多数の法案が相次いで上程された。AIMのみならず、全米のインディアン部族の運動団体がワシントンDCに集まり、最大規模の抗議行動が行われた年となった。
この抗議行動のなかで彼らが「最大の民族的危機のひとつ」として掲げたのが、「インディアンという名称の剥奪」だった。飢えたプリマス植民地の移民たちに食糧を与えて保護し、農業を教え、生存の手段を与えた「インディアン」も、リトルビッグホーンの戦いでカスター中佐と第7騎兵隊を破った栄光ある「インディアン」も、「アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)」という名称へのすり替えによってその存在が無視され、「保留地」や「自治権」ともどもアメリカの歴史から抹消されていくという、民族浄化に対する危機である。こういった背景から同年、先住民代表団は国連で「我々の民族名はインディアンである」と決議表明を行っている。
(「インディアン」を使うべきだった!!)
白人はすべてのよい土地を奪い、アメリカ先住民を殺し、まったく関係のない土地に移動させ、部族の言葉・習慣を奪い、白人と混血・同化させることで、見事にアメリカを奪い切ったのである。
現在、アメリカ先住民・アラスカ先住民の割合は1.2%である。
6.カンザス州での出来事
ジョン・ブラウンは奴隷制度廃止運動家である。しかし穏健派ではなく、運動の手段としてアメリカでは初めて「反乱」を提唱し実行した人物である。奴隷制度廃止運動によって奨励されていた平和主義には満足せず、 「こいつらは口先だけだ。我々に必要なことは行動だ-行動だ!」と言ったそうだ。
彼はニューヨーク州にいたが、ある日カンザス準州にいる息子達から、カンザス準州で奴隷制度賛成派に危険を感じるとの知らせが入った。彼はカンザス準州に向けて旅立った。道々、寄付を募ったり武器を募ったり、仲間まで増やしてカンザスにたどり着いた。しかし、奴隷制度賛成派と廃止派の力は拮抗し、小競り合いが続いた。
1856年5月24日、ジョン・ブラウン達は奴隷制度擁護派の開拓者5名をポタワトミー・クリーク の小屋から連れ出し、幅広の刀で叩き切った。ブラウンと残った者たちが近くの森に隠れている間にミズーリ州部隊はオサワトミー(カンザス州東部の町 )を略奪し燃やした。ブラウンは敗れたものの、圧倒的な敵に対してその勇敢さと戦闘における抜け目のなさが国民の注目を集め、北部の奴隷制度廃止論者にとっての英雄となった。その後、家族や仲間を含めてゲリラ戦を続けたがバージニア州で捕まり、絞首刑となった。
参考:ジョン・ブラウンジョン・ブラウンのこの絵はカンザス州トピーカの州会議事堂にある大壁画である。カンザスの誇りの事件なのであろう。
カンサスの1枚目のアルバムのおじさんはこの方である。
2.先住民の今
この州の先住民のほとんどは、19世紀初頭に、東部森林地帯からアメリカ政府によって強制移住させられてきたものである。こののち、オッタワ族、デラウェア族は1866年、クアポー族(アーカンサス族)、ソーク族、ワイアンドット族は1867年にオクラホマ州へ強制移住させられた。残る部族も1887年制定の「ドーズ法」で保留地を没収され、ほとんどが絶滅指定された。
州名の由来となったカンサ族(コー族)自体は、1872年にオクラホマ州へ強制移住させられ、部族としては同州にはいない。
アメリカ連邦政府から公認を打ち切られている(絶滅指定されている)部族は、保留地を持つことが出来ない。多くの部族が公式認定を求めアメリカ内務省と交渉中である。
3.カジノ
カンザス州では、5つの部族がインディアン・カジノを運営している。
ワイアンドット族は、連邦から公認されていない部族であるが、2003年8月に部族共同体の伝統墓地の駐車場に移動型カジノの営業を始めた。2004年、州司法長官はカジノを強制閉鎖させ、152台のスロットマシンと50万ドルの現金を押収した。
ワイアンドット族は州と関係当局を告訴し、これに完全勝訴。2007年より7番街のフリーメーソンの廃寺院を使って、部族カジノは再開された。連邦保留地を持たない部族が自前で建物を買い、カジノを開くという事例が実現することとなった。
参考:カンザス州
今や、インディアン・カジノは先住民の生命線である。政府から認められている部族でも、限られた保有地でどう生活するのかは問題である。
さらに連邦認定を解除された「絶滅部族」は、保留地を没収されるのでカジノを作る場所さえない。 「絶滅部族」とされたならば、誰の助けもなく外に放りだされることになるのだ。上記ワイアンドット族はうまく頑張った例であろう。
先住民にギャンブルをやらせるなんて、、、しかも、仕方ナイネ、なんて顔をして許可出してるなんて。絶対いい死に方をしないだろう。
…でもインディアン・カジノ、行ってみたいなあ~。
そして、カンザス州は昔からアメリカにおける田舎の代名詞なのだそうだ。あるハーバード大の教授も、カンザスの農村を魅力に乏しくもっとも住みたくない鄙びた地域の典型として挙げているそうだ。
7.何故カンサスはイモ扱いされるのか
1.「アメリカン・ドリーム」
この言葉には悪のにおいがする。
’’ アメリカン・ドリームとは、アメリカ合衆国における成功の概念。均等に与えられる機会を活かし、勤勉と努力によって勝ち取ることの出来るものとされ、その根源は独立宣言書に記された幸福追求の権利に拠る。 ”
引用:Wikipedia アメリカン・ドリーム
1802年、西部開拓時代に先立ち、アメリカ第6代大統領ジョン・クィンシー・アダムズは、プリマス上陸二百年祭の演説において、「帝国の進路は西を目指しゆく」と叫んだ。大西洋岸に到着した彼らの夢は、際限なく広がる「未開」の西の大地へ向けられた。貧乏な人は自営農として、自分の家を持つことが重要だったのだ(今でも)。
少し脱線するが、このアダムズさんは先住民にたいしては、インディアン条約を守り、その領土を「購入」するべきだと考えたのだ(先住民の考え方とはそぐわないにしても)。しかし詐欺的な交渉をやり直すといったアダムズの決定に、南部白人や西部白人は激怒したという。
1828年の大統領選挙では、「史上最悪の中傷合戦」が展開され、アダムズは落選。代わって大統領となったのは、インディアン虐殺で名を上げ、インディアン達をその冷酷残忍さで震え上がらせたアンドリュー・ジャクソンだった。ジャクソンはアダムズのような生ぬるい態度をとらず、問答無用でインディアンを武力で虐殺制圧し、ミシシッピ以西への強制移住を実行したのである。この政策は白人入植者から絶賛された。わからない。アメリカ人の二重底。
もう一つの定義。
”アメリカ先住民を虐殺し、流れ者と戦いながら開拓し、生活用品は豊富な森林から自分で生み出すと言う移住者には、共通する開拓者精神、いわゆるフロンティア・スピリットが生まれ、これがアメリカ人としてのアイデンティティ、「アメリカン・ドリーム」となって現在まで受け継がれている。”
”アメリカ・インディアンの歴史”
私の頭には、テレビドラマの「大草原の小さな家」が浮かぶ。州から州へ、土地をもとめてさまよう開拓者の一家。お父さんはまじめで強くてやさしい人。お母さんは気丈で明るい人、お裁縫も上手だ。長女は美人で賢く、次女はいまいちだが主人公。幼児と養子の男の子がいる。詳しい事情は知らないが、両親はイギリスからやってきた人たちなのかな?
お父さんはすごく働く、耕したり木を切ったり、家畜の世話をしたり。子供たちは教会の学校へ行く。この人たちはフロンティア・スピリットとやらを持っていたんだな。
そして、団らんのときにはバイオリンを弾くのだ。本だと、バイオリンをひいてもらいながら「パパのひげが好き」とか言ってやがる。
中学校の偽の友達にこのドラマが好きな子がいてね、「アーリー・アメリカン」が好みらしく、一度遊びに行ったら部屋がアーリーだったわ。「血まみれのアーリー・アメリカンね」と言ってやればよかったわ。まあ、お互い、イモでしたけど。
アメリカン・ドリームの延長に、二流映画から見える切ない地方都市の生活や、スティーブン・キングの小説から想像する寂しい暮らしがあるのだね。
それに、移民を入れたくないのも、銃を離さないのもわかってきた。
「領土、命!」なのだ。
2.カンサスはイモか?
これを書いている間ずっとカンサスを聴いていたので、カンサスの「デビュー40周年(2015年時)記念DVD」が見たくなり、つい買ってしまった。主に「Leftoverture」が大ヒットするまでの状況がインタビューで綴られている。売れないバンドのサクセスストーリーである。(面白いので、ファンの人にはお勧めします。)
メンバーが皆、当時のカンザス州での暮らしについて、こんな感じのことを言うのである。
「皆トピーカの隅っこに住んでいて、町の外はもうずっと畑、畑。行くところがない。自然に家の中で過ごすことが多くなる。 」
「家に鍵なんかかけたことがない。」
「ロサンゼルスに行ったときには何もかも違って、ものすごく驚いた。」
「ここは西海岸でも東海岸でもない、中西部だ。何もないんだ。」
カンサスは大ヒットするまで、中西部を回り続け、年に250日くらいライブを行っていた。大体前座だったようだ。その結果、中西部の若者がカンサスを認めたのだ。彼らリスナーは大平原で、例えばイーグルスを聴いても、少し悲しい感じがしていたのではないかなどと想像する。
カンサスのメンバーはみんな分厚い。BowieやMickやピーガブのように薄くない。それにステージ衣装があか抜けない。オーバーオール、日本の着物、軍服めいたもの、結婚式で着るようなひらひらのついたシャツにスーツ、着古したようなTシャツ、とどめはサッカーのユニフォーム。皆好き勝手にやっているようだ。これはどうしたことか。
例えば、Mickの衣装は相当おかしいが、かっこいい。Mickは自分を下品に見せようとしているし、観ているほうもそれがわかっている。私は下品に振舞うMickが好きなのだ。
ところが、カンサスのそれは意図的なのか自然体なのか判断がつかない。でも、いずれにしても、そのいでたちは「中西部」を表している気がしてきた。
彼らにすれば、西海岸・東海岸との対比として、「田舎っぽい」「イモ」と言われることは狙い通りなのだ。かっこいいサブカルチャーのなかった中西部でできたプログレバンドだけれども、中西部だからかっこよくなったら意味がないのだ。
また、カンサスのレコードジャケットにはアメリカ先住民が登場するが、それが彼らの音楽にそれほど関係するとは思えない。Livgrenは「イメージとしてはあった」とは言っているが、以前「Seeds of change-Kerry Livgren」で書いたように、その頃の彼の頭の中は東洋思想とThe Urantia Book でいっぱいだったからだ。先住民に対しては無関心なように見える。
演奏は、先行バンドの音楽の上にライブで鍛えた技術とアメリカ・ロックの骨太さ、キレ、独自性がありなかなかよいと思うのだが。
奇跡(ミラクルズ・アウト・オブ・ノーウェア)(完全生産限定盤)(DVD付)
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- 発売日: 2015/03/25
- メディア: CD
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---------------------------------カンサスは今もPhill Ehart が続けています。HP、よくできています。↓
3.Song for America
やっぱりイモなんだな…と思っていたところに、ふっとLivgren様の霊がおりてきた。まだご存命なので、生霊である。
「Song for America、聞いたか?」
む、忘れていた。敬遠しがちなタイトルだからまじめに聞いていなかった。
アメリカン・ドリームを讃える「アメリカ賛歌」だと思うでしょう?なんかちがうんですよ…
♫大変美しい土地に、放浪者が来て、次に多くの帆船が来た。略奪、強姦、殺人、伐採。
(間奏)
今や高速道路やビルディングが立ち並び、多くの人間がいる。疲れ切った戦いが今また始まろうとしている 。♫
メロディが悲惨ではないので全く気付かなかったが、これまで振り返ったアメリカの黒歴史の歌だったのである。『略奪、強姦、殺人』が南北戦争のことなのか、インディアン戦争のことなのかはよくわからない。しかし、もし先住民にされたことを歌っているのだったらそれはもうRockではないだろう?
間奏がしつこいくらい長い。その間、バイオリンが鳴りっぱなしである。それは、あの善人開拓者、ローラのお父さんのバイオリンだ。
悪意のない破壊者のお父さんが、ずーっとバイオリンを弾いている。
気が重くなる。
アメリカ人は案外奥深いのかもしれない。
そして、カンサスはイモじゃない気がする。
「カンサス=トットリーンズ事件」2
本題は「何故カンサスはイモ扱いされるのか」であるが、前回「まずはアメリカの歴史を知らなければ!」という気持ちに行きついたところで終わっていた。
(詳細は過去のブログを参考にしていただければうれしいです。)
ahmdo.hatenablog.co↑ 超簡略年表もありますのでご覧ください。
【コロンブスたちがしたことと、先住民がされたこと】
①到着したサン・サルバドル島で先住民のアワラク族から歓待を受け、物々交換する。アメリカ先住民は物の所有にあまりこだわらない。ただ、コロンブスは黄金がほしかったので、先住民を奴隷とし、略奪し、南に向かった。
②2度目のコロンブスの軍隊上陸時には、行く先々の島々で、まるでスポーツのように、動物も鳥も先住民も、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。コロンブスがイスパニョーラ島でしばらく病に臥せると、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、窃盗、殺人、強姦、放火、拷問を駆使して、アメリカ先住民に黄金の在処を白状させようとした。 コロンブスが何カ月も病に臥せっている間、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。
→ 5万人以上のアメリカ先住民が死んだ。
③3度目の上陸時には、スペイン人の持ち込んだ病に倒れ非武装だった先住民の村々を徹底的に攻撃するよう指揮した。
→数千人単位が虐殺された。
コロンブスの襲撃戦略は、以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった。
④コロンブスは、イスパニョーラ島の先住民部族の指導者と睨んでいた一人の酋長を殺さずに、引き回しの刑と投獄のあと、鎖に繋いで船に乗せ、スペインへ連行しようとした。
→しかし他の先住民たちと同様に、この男性は劣悪な船内環境の中、セビリアに着く前に死んだ。
コロンブスは奴隷を連れて国に凱旋するが、なぜかイザベル女王の顰蹙を買った。彼は死ぬまで到着した島がアジアだと信じていたという。
⑤コロンブスの上陸時に約800万人いたアメリカの人口は、1496年の末までに、その3分の1までに減った。さらに1496年以降、死亡率は倍加していった 。
【その他】
コロンブスの虐殺行為については、先住民に対する人種差別的 、「ヨーロッパの傲慢な本質」を体現している、などの見解がある。
アメリカ合衆国の記念祝日である10月12日、「コロンブス・デー」は、アメリカ先住民にとっては「白人による侵略開始の日」に他ならない。1911年にアメリカ先住民運動家たちは「アメリカインディアン協会」を設立し、「全米インディアン・デー」を提唱。オハイオ州コロンバスでの第一回決起大会において、『インディアンが白人のアメリカを発見した日!』とのスローガンを掲げ抗議した。
2.1523年にフランス人との毛皮取引 、1576年にイギリス人との毛皮貿易が始まる
毛皮は、アメリカ先住民同士の交換物であったが、ヨーロッパ人が交易に参入しヨーロッパにまで届いた。 フランス、イギリス、オランダ、スペイン、ロシアは毛皮交易で競合した。
毛皮交易は、交易者とフランス本国に富をもたらす一方、かかわった先住民の生活を変えた。ビーバーの原皮や他の毛皮と、ヨーロッパの品々(鉄器、銃器含む)が交換され、先住民の生活水準は飛躍的に向上した。その後、セントローレンス川沿いのビーバーは壊滅状態となり、毛皮獣が豊富なカナダ楯状地への立ち入りを巡って、先住民同士の抗争が激化した。
獲物を巡っての争いで、先住民が先住民を殺したり捕虜にしたりした。絶滅寸前となった先住民族もあった。
また、いつも通り、フランスから持ち込まれた新手の伝染病により多くの先住民が死亡し、戦闘と病気で彼らの共同体は破壊され、彼らの勢力図も変わっていった。白人が持ち込んだ「酒」も、先住民をむしばんでいった。
北アメリカに住んでいた多くの先住民諸部族にとって、毛皮交易は主な収入源であった。しかし、1800年代の半ばには、ヨーロッパの流行の変化により毛皮の価格は大暴落、アメリカ毛皮会社は低迷した。多くの先住民たちが長期にわたる窮乏生活に陥れられ、その結果、彼らが持っていた政治面での影響の大部分を失った。
3.1620年、イギリス移民(メイフラワー号)到来 、本格的な略奪が始まる
メイフラワー号に乗船したピルグリム・ファーザーズが、イギリスから新天地アメリカの、現在のマサチューセッツ州プリマスに渡ってきた。乗客は102名、乗組員は25から30名だった。 病気に苦しめられた厳しい旅だったようだ。
【感謝祭】
入植当初の状況は厳しく、イギリスから持ってきた野菜や小麦は収穫にとぼしかったため、翌1621年の4月までに半数程が病死した。ピルグリム・ファーザーズが上陸した土地には先住民のワンパノアグ族が暮らしており、ピルグリム・ファーザーズに食糧や物資を援助した。ワンパノアグ族のスクアントは英語を知っており、ピルグリム・ファーザーズに狩猟やトウモロコシの栽培などを教えた。
1621年には収穫があったため、ピルグリム・ファーザーズは収穫を感謝する祝いにワンパノアグ族を招待した。祝宴は3日間におよび、料理が不足すると、ワンパノアグの酋長マサソイトは部族から追加の食料を運ばせた。この祝宴が感謝祭のもとになったと言われている。ニュー・プリマスはやがて、発展するニューイングランドの最初の植民地となった。
しかし間もなく、白人たちは入植範囲を拡げ始め、先住民との間で土地と食料を巡って対立が発生し、戦闘が起きるようになった。 ワンパノアグ族の酋長マサソイトは、平和と友好を保つためにピルグリムと条約を結んだ。
ピルグリムは1630年にマサチューセッツ族の領土に進入。白人が持ち込んだ天然痘により、天然痘に対して免疫力がなかったマサチューセッツ族の大半は病死した。
【1636年、ピクォート戦争】
1人の白人がピクォート族に殺された事がきっかけで発生。白人は容疑者の引き渡しを要求したがピクォート族がそれに応じなかったため、その村を襲い、大量虐殺を行った。
【1675年、「フィリップ王」戦争】
急激に増加した白人は、先住民にその土地を売るように要求、キリスト教への改宗を強制、先住民に不利な裁判を行うなどし、先住民の反感を買い始めた。先住民には「土地を売る」という概念はそもそもなかったし、個人の選択として宗教を受け入れることはあったが、部族全体を従わせようとするヨーロッパ人の思考は先住民には理解不可能だった。
ワンパノアグ族の酋長マサソイト死後、白人は先住民が住む土地にまで入植地を拡大して行った。そのためマサソイトの長男ワムスッタ(新酋長)は「調停者」たる先住民の酋長の役目として、入植者が父マサソイトに要求して結んだ入植の土地の譲渡と和平条約に異議申し立てをプリマス入植地で行い、侵略行為を止めるよう説得した。が、プリマス入植地から村に帰る途中、ワムスッタはなぜか病気(毒殺されたとも言われる)による謎の死を遂げてしまう。
そして新たに24歳のワムスッタの弟メタコメットが新酋長になると、入植者との関係はさらに悪化して行った。メタコメットも兄と同様に、調停者として最大の努力を払い、白人との友好関係を続けていくことに苦心していた。
しかしついにワンパノアグ族とメタコメット酋長は、合議の結果、部族の土地を侵す白人に対して宣戦布告の準備を始めた。1675年6月25日キリスト教に改宗したワンパノアグ族で、ハーバード大学のインディアン・カレッジで学んだジョン・ササモンが、プリマス入植地の総督ジョシア・ウィンスローに「ワンパノアグ族のメタコメット酋長が白人に対して戦争準備をしている」と通報したが、その後ササモンは別部族の先住民に殺されてしまった。
ワンパノアグ族は、ニアンティック族、ペナクック族、ノーセット族らワンパノアグ族と同盟を結んでいた部族と共同して、プリマス入植地を攻撃した。攻撃された入植地の白人側も武装して、ワンパノアグ族と敵対するモヒカン族やモホーク族などの部族を味方に付け全面戦争が勃発。先住民側にはニプマック族やナラガンセット族も参戦。ナラガンセット族はプリマス入植地総督のウィンスローに部族の婦女子を大虐殺されており、恨みを持っていた。
戦争はマサチューセッツ植民地とコネチカット植民地を引き込んでのニューイングランド全域に及んだ。先住民側は52の町を襲撃し、12の町を壊滅させた。1676年に入ると、ニューイングランド植民地連合軍は、植民地で採用された民兵、ミニットマンを活用し反撃した。ナラガンセット族のカノンチェット酋長(白人は彼を指導者と見ていた)が1676年4月3日に逮捕及び処刑され、白人に対して反旗を翻し戦いを挑んだワンパノアグ族のメタコメット酋長が3ヵ月後の8月12日に戦死し、入植者側が勝利する形で戦争は終結する。
戦いで600人の白人入植者と4000人以上の先住民が死んだ。戦死したメタコメット酋長の遺体は白人達により八つ裂きにされ、首は槍の先に突き刺され、白人達の村に24年間飾られた。そして捕虜となったメタコメット酋長の家族を始めとする先住民達は奴隷として西インド諸島などに売り飛ばされて行った。
入植者はメタコメットをただの「戦争を始めた首謀者」と見なし、理不尽な辱めをこれに与えて勝利を祝ったのである。
彼らはピューリタンの中の「非国教徒」一派であり、信教の自由を求めてこの船に乗ってやってきた。そのため、アメリカ合衆国にとってメイフラワー号は信教の自由の象徴であり、歴史の教科書で必ず触れられている。先祖がニューイングランド地方出身というアメリカ人は、メイフラワー号の乗客の末裔だと信じていることがよくある。
なんなんですかね、これ。清教徒って清くないのでは?
4.1755年、七年戦争、フレンチ・インディアン戦争 に巻き込まれる
東海岸にはイギリスの植民地ができ、北のカナダや西のルイジアナにはフランスの植民地ができた。ヨーロッパでイギリスとフランスが戦うと、植民地でも戦争が始まった。ヨーロッパが七年戦争をしている時には、北米ではフレンチ・インディアン戦争が戦われた。
これは、イギリスにとっての「フランス王国&同盟を結んだ先住民」との戦争という意味で、実際は「フランス王国&同盟を結んだ先住民」vs「グレートブリテン王国&同盟を結んだ先住民」の戦争である。この戦いでフランスは敗れ、カナダをイギリスに、ルイジアナをスペインに奪われた。
戦争が始まると先住民は英仏のどちらにつくかを迫られ、どちらが勝っても領土は没収された。北米東海岸を制圧したイギリスは、先住民を追いながら西へ領土を拡大していった。
5.1783年、先住民が住んでいる土地にアメリカ合衆国ができてしまう
1763年、イギリスは国王ジョージ3世の名で「国王の宣言」という植民地政策を示した。
イギリスがフレンチ・インディアン戦争で獲得したルイジアナでの先住民の反抗を緩和させるためのものであったが、イギリス人入植者は大いに不満だった。
- 東はアレガニー山脈から、西はミシシッピ河まで、南北はフロリダの北から五大湖を含む地方をイギリス王の直轄地とする。
- そこはインディアン保留地とし、植民地人の移住を当分の間禁止する。
- 植民地は現地でとれる原料品を本国に送らなければならず、現地で加工してはならない。
- 他国の植民地と交易してはならない。
入植者には、辺境で思うように活動する自由-狩猟をし、先住民との貿易を行い、毛皮を集め、また、ぼろいもうけ仕事をさがしたり、あるいは、土地を手にいれるために、勝手にぶらつき歩いたりするという自由が、もはやなくなることを意味していたのである。
これを歓迎した先住民諸部族は、1775年にアメリカ独立戦争が始まるとイギリスを支援し、アメリカ独立軍と戦った。しかし、アメリカ合衆国が勝利してしまい、1783年のパリ条約でミシシッピ以東のルイジアナがアメリカ領に編入され、『アメリカ人』の手による先住民の土地の略奪、殺戮が始まった。
極論すれば、アメリカ合衆国の独立は『先住民の土地を略奪する自由』をイギリスから獲得するための戦いであった。従ってその独立宣言、さらにアメリカ合衆国憲法に先住民の存在を認める発想はそもそもなかったのである。
うわあ、、、まだまだ略奪は続くんです。イギリス人はスペイン人に負けていませんよ。
でも、もう疲れました。いったん休憩します。
ドロシーおばさんは、あと3回くらい書かないとカンサスに戻れません。
(2019/10/6)
「カンサス=トットリーンズ事件」1
40年近く前、当時の若者・四〇何某という人が、次のような趣旨のことを音楽雑誌に書いていた。
「カンサスなんてイモだ、『トットリーンズ』だ。それに比べて、なんとヒューマン・リーグのすばらしいことか。これからはヒューマン・リーグだ。」
カンサスが何故イモなのだ?
私はブルー・オイスター・カルトファンであるが、カンサスのことも風呂場で歌えるくらいには聞いていたので、少し気分が悪かった。
私はこれを「カンサス=トットリーンズ事件」として心にとどめ、40年間ネチネチ考え続けてきたのである。そして先日、偶然カンサスのギタリスト:Kerry Livgren のソロの曲を聴き、カンサスがイモ扱いされる理由を解決すべき日が来たと思った。本来、Kerry Livgrenについてはこの事件の一部として書きたかったのだが、内容がまとまらないので先に部分リリースした。
(ご参考)
先の一文は、
「イモなカンサスを生んだカンザス州は田舎でイモ、同じように鳥取県は田舎でイモ、もしバンドがあったらイモ」という意味であろう。
しかし、田舎とイモの定義は少し異なる。
◆田舎の定義:(大辞林)
- 都会から離れた地方。在郷。在(ざい)。
- 人家・人口が少なく辺鄙(へんぴ)な所。 「ここは東京の-だ」
- 本人の生まれ育った故郷・郷里。また、親や祖父母などの出身地。在所。 「正月には-へ帰る」
- (他の語に付いて)粗野で、洗練されていないことを表す語。 「 -くさい」
◆イモの定義: (実用日本語表現辞典)
- 田舎者っぽい、あか抜けない人 → 上記の4番と同じ。
カンザス州は『田舎』らしい。Livgrenも自著の中で「rural area」と表している。農業の州だ。人口密度は、カンザス州12.7人。
鳥取県は関西から割と近く、一泊くらいで遊びにいく場所だ。古事記の昔から人が住んでいる誉れ高い町である。農業中心の地だし、確かに過疎だ。『田舎』と言えるだろう。しかし、当時から日本中で過疎化・人口の都心集中は始まっていたのだから、何も鳥取だけが田舎だったわけではない。
よって、双方とも田舎だが、イモとは断定できないし、鳥取を同列に置く必然性はない。
なお、ヒューマン・リーグのおしゃれさについては認めるところだが、洗練された退廃的な都会でピコピコとダンスするのに似合うのは、私の知る限りでは六本木くらいである。『トットリーンズ』の対照として、「ヒューマン・リーグは『ロッポンギーズだ』」くらい書けば笑い(私の)をとれたのだ。
最後に、鳥取の人に失礼だ。鳥取の若者だって本屋でその雑誌を買っただろうし、本屋で扱っていない街の子は、鳥取市や米子や倉吉まで行ったかもしれない。現金封筒で出版社までお金を送っていたかもしれない。
…と、不確かな記憶をもとに、40年前の若者に対して40年後のほぼ高齢者が愚痴を書いた次第である。
余談であるが、カンザス州と鳥取県の関係について見つけたこと。
- 鳥取県の友好交流都市はバーモント州である。カンザス州ローレンス市の姉妹都市は平塚市だ。
- 平塚市では近年「ローレンス市姉妹都市提携25周年記念」でカンザス州を訪問したようだ。日程に「バッファロー見学」「農場見学」「ローレンス市民と夕食 」などがある。市長以下9名が行ったそうだが何か成果があったのだろうか。
何某も、カンサス=ヒラツカーンズにしておけば、先見の明があったといわれたであろうに。
ところで。本題は、何故カンサスはイモ扱いされるのか、である。カンザスという土地のことを、私は全く知らない。きっと皆さんもよく知らないであろう。少し調べてみよう。
※ここでSteve Walshがいったん脱退するので、紹介はここまで。
私はドラムのPhill Ehartが好きです。
2.カンザス州
2-1.カンザス州への行き方
2-2.カンザス州の場所
全域がグレートプレーンズ(大平原)の真ん中にある。土地は平坦、大規模農業に適している。農業、牧畜業が盛んである。
こんな感じ。ああ寂しい。(カンサスのCDより)
3.いきなり、アメリカの歴史
年表をまとめていたら、血なまぐさくて嫌になっちゃった。
略奪、征服、自然破壊、たえまない戦争の歴史だ。500年にわたって、アメリカ先住民は殺され、白人に同化することを強いられてきたのだ。白人が来るたびに病気がもたらされ、村の人が全員死んでしまうこともあったという。その上、軍隊が来てどかされ、ひどい土地に引き回され、そのあとに入植者がやってきた。新大陸とはよく言ったものである。
以下に主だった白人の蛮行をあげていく。
そののち、カンザス州で何があったか、探ってみる。
…と思っていたら結構長編になりそうなので、今日はいったんこれで終わりにします。
(読んで下さっている方には申し訳ないが、話がこっちに来てしまいました。)
(2019/9/29)