koorogi_ahmdoのブログ

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私が攘夷派になった日

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私は大阪府堺市育ちである。中学校でのある日の放課後、女子何人かと教室で話していた。私は稲吉の隣に座り、ぼーっと考え事をしていた。「稲吉、パーマにおうてへんなあ、あれ?ヒゲ濃いなあ」。

いきなり稲吉に力いっぱい横っ面を張られた。「お前、何見てるねん!」と言う。唖然、返す言葉も見つからない。

瞬時に「何やっとんねん!!」といって、うしろにいた城井さんが机を乗り越えて稲吉に襲いかかり乱闘となった。もう、サル山である。

しかし、城井さんがいなければ私はもっとしばかれ、そののち金品をせびられていたことだろう。ありがとう城井さん。元気かな。

 

学校の前の、元はお堀だったドブ川は潮の満ち引きで一応水量が増減する。それは泥沼のようであり、ボコボコとガスが湧いていた。近所のザビエル公園は傷んでおり、その上不良のたまり場だ。市は、すっかり公害と汚職の街となっていた。

 

1.暗い図書室にて

 そんなこんなで、私は消極的な学校生活を送っていた。残念なことに、助けになるはずの図書室がなってない。部屋が暗すぎるし、本が古すぎる。読みたい本はまずないので、図書室に通うこともあまりなかった。それでもある日、一冊の本を見つけた。そんなに厚みはなく、昭和前半のねっちりした明朝体で印刷されている。中を覗いてみた。多分この学校では一生読まれない本だろうなと思った。

 

それは「郷土の歴史」といった類の本だった。そんなことにはまったく興味がないのだが、聞いたことのない変なことが書いてあるので混乱し、やめられなくなってしまった。近所の大浜というところに水族館があったとか、灯台があった、など。

 

そして、ある事件が気に入った。

明治の初めのこと、堺で白人たちが狼藉をはたらき、それを止めるため侍たちは白人たちを切り殺した。それは大きな事件として扱われ、侍たちはその責任をとるべく切腹を言い渡された。切腹は堺の妙国寺で、白人の責任者・日本人の責任者の立ち会いのもと行われた。切腹は一人ずつ順々に行う。侍が次々と切腹介錯され、しまいには裂いた腹から腸をつかみ出し白人を恫喝する者が出たりと、それはもう残酷な場面が続いた。切腹予定人数の半分くらいのところで白人は顔色が悪くなって「もうやめろ」と言ったという。そして、そうそうに沖に止めてある船に戻ってしまった。そのあとに切腹準備していた人は助かったという。のちに知ったが、これを「堺事件」と呼ぶそうだ。

 

妙国寺といえば、学校のすぐそばである。天王寺まで行けるチンチン電車の駅の名前でもある。何気なく通りすぎていたが、あそこでそんな事件があったとは。

白人の前で次々に切腹していく勇敢で野蛮な日本人の姿、あまりの壮絶さにビビる白人の姿が目に浮かび、感動したのである。多分そのころ社会科の授業で『不平等な日米修好通商条約』を知り、「ハリスめ…」などと腹を立てていたのであろう。

その時、私は攘夷派になった。

 

ところが攘夷派になったからといってこれといった活動をするわけでもなく、大好きな洋楽を聴き、洋画や洋ドラマを見つづけていた。

 

ただ、一つだけ活動をした。妙国寺で亡くなった侍の墓がこれまた近所の宝珠院にあるので、学校帰りに見に行こうと思ったのだ。学校から出ようとすると赤坂さんが「どこいくん?」という。赤坂さんに攘夷の話をしてもナァと思いつつ、そんなこんなで切腹した人の墓を見に行こうと思っているというと「うちもいくわ、おもしろそうやな」と言う。おもしろいわけがない。家に帰りたくない事情があったのだろう。

 

という訳で、赤坂さんと私は宝珠院に向かった。門はかたく閉ざされていた。そこで赤坂さんは呼び鈴をピンポンピンポン押し続けた(連れてきてよかった)。やっと坊さんが出てきたので、私が話を聞きたいと言うと、もう遅いから(まだ5時くらいよ)帰りなさいと言い、そそくさと戻ってしまった。

中学生に対してなんと夢のない言葉。その日、私の攘夷熱は冷めてしまった。その坊主は二人の中学生の勉学への足掛かりを摘んだのである。

しかし、攘夷の気持ちはしぼんでしまったものの、どこかに潜伏したようである。

  

2. 堺事件

では、「堺事件」とは実際はどんなものだったのだろう。

 

1868年(旧暦)

1/7 

大坂開城とともに大坂町奉行が崩壊して、奉行所の同心たちは逃亡した。

1/11

土佐藩六番隊が、堺の警護のために堺に来た。

1/11

神戸事件起こる(備前藩兵が隊列を横切ったフランス兵を襲った。)

1/16

土佐藩六番隊箕浦元章に神戸事件の情報が入った。箕浦、怒り、在京阪の土佐藩兵力を検討する。

2/8

土佐藩八番隊が堺に到着。

2/15     

3時頃:

フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」は、駐兵庫フランス副領事M・ヴィヨーと臨時支那日本艦隊司令ロアら一行を迎えるべく堺港に入り、同時に港内の測量を行った。この間、士官以下数十名のフランス水兵が上陸し市内を遊びまわる。

夕刻:

近隣住民の苦情を受け、六番隊警備隊長箕浦元章猪之吉)、八番隊警備隊長西村氏同佐平次)らは仏水兵に帰艦を諭示させたが言葉が通じず、土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとした。仏水兵側は土佐藩の隊旗を奪った挙句、逃亡しようとした。

土佐藩兵側は咄嗟に発砲。和泉国堺栄橋通・旭町(現・大阪府堺市堺区栄橋町・大浜北町)一帯で銃撃戦となり、土佐藩兵側が仏水兵を射殺または、海に落として溺死させ、あるいは傷を負わせた。

2/16

遺体引き渡し。死亡した仏水兵は11名でいずれも20代の若者であった。

2/19

山内容堂は、仏公使ロッシュ藩士を処罰する意向を伝えた。ロッシュは以下の五か条を要求した。

  1. 下手人たる土佐藩隊長以下隊員を、暴行の場所に於いて、日仏両国の検使立会の上、斬刑に処すること
  2. 賠償として、土佐藩主(山内豊範)は15万ドルを支払うこと
  3. 外国事務に対応可能な親王フランス軍艦に出向いて、謝罪の意思を表すこと
  4. 土佐藩主も自らフランス側に出向いて謝罪すること
  5. 土佐藩士が兵器を携えて開港場に出入りすることを厳禁すること

明治政府は戊辰戦争のために余力がなく、開戦すれば敗北することは目に見えていた。結局ロッシュの要求を受けざるをえなかった。

2/23

死刑執行

堺材木町の妙国寺土佐藩士20名の刑が執行された。

箕浦元章、西村氏同と順々に切腹が進んでいく。

最初は介錯がうまくいかず何度も切りつけるという残酷さ。

藩士たちは自らの腸をつかみ出し、居並ぶフランス兵を大喝した。

(腸をちぎって投げたという話もあるが、疑わしい。)

立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールは、

(フランス人の被害者数と同じ)11人が切腹したところで中止を要請し、結果として9人が助命された。一説に、夕方になり日暮れるに至り、軍艦長は帰途における襲撃を恐れたからであるという。本人の日誌によれば、侍への同情も感じながら、この形での処刑はフランス側が望むように戒めになるどころか逆に侍が英雄視されると理解し中断させたそうである。

 

2/24

明治天皇とロッシュが手打ち。

2/25

土佐藩山内豊範が「ヴェニス」に乗船、ロッシュに謝罪。

2/30

ロッシュは御所に参内予定であったが、京都市繩手通りで打開事件に憤激した攘夷志士に襲撃され、延期となった。

 

その後

処刑を免れた橋詰愛平ら9人は、土佐の渡川(四万十川)以西の入田へ流された。その後明治新政府の恩赦により帰郷した。遭難したフランス人の碑は神戸市立外国人墓地に建てられた。宝珠院に置かれた処刑された11人の墓標には多くの市民が詰めかけ「ご残念様」と参詣し、生き残った九人には「ご命運様」として死体を入れるはずであった大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかったという。

 

むごい話である。死んだ若いフランス兵も気の毒だが、堺を守ったのに切腹させられた侍、賠償金の要求、やくざに付け込まれたようなものである。

 

アベル・デュプティ=トゥアールは気分がわるくなってストップさせたというが、残念ながらちがったようだ。ギロチンを作ったフランス人が、切腹にビビるわけがない。

 

3.数々の外国人殺人事件

 年表にしてみると、ペリーが来日してから明治維新までの間に、白人に対する傷害・殺害事件が毎年のように起きていることがわかる。殺された白人が特に大暴れをしたなどの例は少なく、行く手を遮るためとか、酔って寝ていたとか、そんなことで切られた。切った侍は処刑され、幕府が賠償金を要求されたりもした。侍は、外国人が日本にいること自体が許せなかったのである。無茶振りする白人に対する抵抗運動であり、テロである。

当時の日本人は相当冷静さを失ったのだと思う。皆がどうしてよいかわからない、混乱した時代だったのだ。

 

1866年の鳶の小亀事件だけは、一般市民が起こした事件である。横浜公園にあった遊郭で、フランス水兵二人が乱暴をはたらいた。見かねた力士の鹿毛山長吉が取り押さえ、駆けつけた鳶職の亀吉が鳶口で殴打、1人を即死させた。亀吉は下手人として処刑され、鹿毛山は追放された。小亀の処刑前の市中引き回しは鳶仲間と遊廓の芸者が総出となって死出を見送る盛大さだったという。横浜市の願成寺に亀吉の墓があり、また、くらやみ坂には外国人殺傷事件で処刑された人々の墓があるという。折をみてお参りにいこうと思う。

 

そして、アメリカはたいしたものだ。南北戦争の前夜、インディアンから土地を奪い奴隷をいじめているさなかに、わざわざ日本にまで来たのである。強欲である。

 

4.攘夷の心?

そんなことで、いまだに私は在日白人集団を見ると、不愉快な気持ちになる。多分ハロウィンの渋谷に行こうものなら、倒れてしまうだろう。白人そのものが嫌いなわけではないが、彼らは自分の国でやったら顰蹙を買うことを、見逃してもらえる日本で行っているのではないか?という偏見を持っているのだ。(それがキリアン・マーフィーなら違ってくるが)

 

そして、ふと気が付くと、特に嫌米になっている時がある。

…ハリスのせいか?

「わんぱくフリッパー」の見すぎか?

奥様は魔女」のせいか?

 

そうだ、ダーリンは大した仕事をしていないのに、ずいぶん素敵な家にすんでいるなあと思ったものだ。そういえば、サマンサの母はマサチューセッツ州セイラム出身の魔女の家系で、セイラムは17世紀終盤に魔女裁判が行われたところである。関係なかった。Salemというたばこもあったが、日本専売公社日本たばこ産業となったときには米国たばこへの関税は撤廃された。米国のたばこを輸入するために民営化したようなものである。やはりここにもゴリ押し外交の影がある。

 

一方、私は『猿の惑星・征服』が好きだ。あれを見て、おさるの味方をしない人はいないだろう。虐げられているおさるたちが人間の社会に抵抗を始め、シーザーが台頭していく。グッとくる。しかしアメリカの映画だ。猿は英語を話している。

アメリカ人は何であんな面白い映画を作れたのだろう?どうしてアメリカ人はあの映画を観たのだろう?まさか自分たちが猿側だと思っているわけではあるまい?

また、日本人はいつもおさるの立場か?

人を高揚させる言葉や映像には、裏があることを忘れないようにしなければ。

 

こんなことを書いているけれども、私は右翼でもネトウヨでも尊皇でもテロ信奉者でもない。江戸時代がよいとは思わないし、特に敗戦前の日本はすごくよかったなどとは絶対思っていない。ただ、劣等感と自尊心(これをナショナリズムというか?)がこんがらがってモヤモヤしたものが心の中にあるだけだ。

 

けれども、虐げたことをすぐ忘れてしまう人がいまいましい。何が『美しい国』なんだか。ハリスと言えば伊藤と唱えるようにしようと思う。私のことは「攘夷派フェミニスト」とでも呼んでください。

 

日本が当時の欧米に搾取されつくされなかったのは、身を挺して戦った藩士たちのおかげもあるかもしれないなあとおもうのである。皆、必死だったのである。事件はまだ旧暦の二月であったが、桜の季節が来ても、殿様も武士も町人も「桜を見る会」には出席しなかっただろう。

 

<追記>

Webで検索したところ、『堺市史』(昭和5年刊、昭和52年復刻 清文堂出版)が見つかりました。https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/2714005100

多分私が見つけた本は、この本もしくはこの本のダイジェスト版だったと思われます。面白いところ、読めるところだけ拾い読みしたのだと思います。

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図1 堺事件について

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図2 水族館について

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図3 灯台について

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図4 妙国寺の位置

 

こういうものをネット上で見られるのは、素晴らしいことだと思います。