10月12日、台東区の避難所がホームレスの入場を拒否した事件について気になったこと。

 

記事に対する、避難所の対応に賛同するSNSコメントはほぼ以下のようなものだ。

・臭くてとても一緒にいられない。

・シャワーを浴びてくるならよい。

・黴菌が赤ちゃんにうつったらどうするのだ。

・自分で選んだ道だから、入れなくても仕方ない。

・税金を払っていないから、入れなくても仕方ない。

 

どれも辟易する意見だが、何が間違っているかについては多くの人が指摘しているのでここでは話題にしない。

 

一番気になったのは「くさい」と言う言葉くさい、くさい、くさい。いろんな人が「くさい」を書きまくっている。なんだ、これは。わざと言っているのか?

(実際ににおうのか不潔なのかは、今は関係ない。)

 

 

生ごみについて「くさい」と言ってもよいが、人について「くさい」というのはいかがなものか。人に対して「くさい」と言うとき、3つの場面が考えられる。

① 体臭・香水臭などが激しい人に対して、直接「あなたにおうわよ」と言う。(あまり言わないが。)

② 子どもがいじめる対象の子どもを「汚い」「くさい」といっていじめる。

③ 身分、職業、地域、民族が違う人を「くさい」といって差別する。

 

SNSの「くさい」は、この①②③全部を含んでいるように思える。

・本人が見ているかもしれないネット上で堂々と「くさい」という。

・「おまえはくさいからむこうに行け」という小学生並みのいじめ。

・無職で家がないので「くさい」と差別する。

 

 

これは屁が臭いとかいうのと訳がちがう。

この「くさい」という言葉は気を付けて使わないと、③の差別的「くさい」がまかり通った時代をよみがえらせてしまうのではないかと心配になるのである。差別的「くさい」は皆が努力し、長い時間をかけて無くしてきたと思っていた。しかし今、無邪気な発言のように見える「くさい」の裏には差別が見える。もしくは、わざと言葉について鈍感に振舞っていると感じる。

まるで言葉が考え方を先導しているかのようだ。これは言葉狩りではなく、懸念である。

 

 

そして、思い出したのが1980年代後半に起こった「アグネス」の論争である。

登場人物は、歌手のアグネス・チャン中野翠林真理子上野千鶴子先生、竹内好美である。

アグネスが職場(テレビ局)に自分の子供を連れてきたという話をした(少し自慢げに聞こえた)ら、中野翠は「職場に子供をつれてくるなんて」と非難し、林真理子が「アグネスは文化人を気取っているが、仕事の厳しさをわかっていない」といった。

何故か上野先生まで出てきてアグネスの味方をした。

 

中野翠の文章は激しくて、品がなかった。

林真理子の文章は今と同様、自分の地位を自慢しながらの嫌味なものであった。

上野先生は、アグネスの味方をしていると言いながら、自分の言いたいことを言っていた。

竹内好美という人が締めていた気がする。

 

なんでこの話を書いているかと言うと、その論争の中で中野翠が書いた「アグネスの匂い」のような表現がかなり問題になったからである。中野翠はこの言葉のせいで相当たたかれていたように思う。「におい」という言葉が外国人差別だ、と誰かが突っ込んだのだ。(結末についてはすみません、よくわかりません。)

 

私が思うに「くさい」「におい」は人権と関わりのある、慎重に使うべき言葉なのである。

自分が「くさい」と書くときは、鼻で嗅ぐ匂いのことだけなのか?そのほかのことも含めているのか?考えたほうがよいと思うのである。

 

余談1:

それから30年、子育ては相変わらず厳しい様子だ。

子どもが減り老人が増え納税額も減った今になって、政府は子どもを産め、女性も老人も働けといい、さあ保育所をつくるし育児休暇もとろうねと言っている。遅い。

 

ある日、私は元職場の同僚男性に「(結婚した若い女性について)何故あの人は乳児を預けてまで働くの?」とセクハラな質問をした。結婚相手は上級サラリーマンだったし、彼女はキャリアを追いかけている感じではなかったからだ。

同僚は「二人で働かないとお金が足らないんですよ。」と言った。今の子育てにはお金がかかるのだそうだ。子どもが減ったら、学校は子どもの選び放題となり、学費も安くなると思っていた。

子どもはふえるだろうか…?

 

余談2:

アグネス・チャンはテレビで、「イスラムの挨拶は、あなたの上に平安を!という意味で、アッサラーム・アライコムといいます。」と言って挨拶していたが、ムスリムでもない人がその挨拶をするのを嫌がるムスリムもいる。彼女のそういうちょっとした無神経さは苦手である。

でもまあ、昭和の話である。

(2019/10/18)