koorogi_ahmdoのブログ

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「カンサス=トットリーンズ事件」3

これは、前回書いた「カンサス=トットリーンズ事件2」の続きである。

本題は、何故カンサスはイモ扱いされるのか、であるが、前回アメリカ大陸の歴史をさまよい、アメリカ合衆国ができてしまったところで力つきてしまった。今回はその続きである。今日こそカンサスに戻れるのでしょうか。

(詳細は過去のブログを参考にしていただければうれしいです。)

ahmdo.hatenablog.com

 

5.アメリカ合衆国ができてから

 

1.1830年、インディアン移住法成立(民族浄化策)で騙される

トマス・ジェファーソンは、「独立宣言書」草案を作った人である。

それってなんだっけ。

 

そこには「全ての人間は平等に造られている」、「生命、自由、幸福の追求は不可侵・不可譲の自然権である」と書かれているという。

 

立派なこと言ってるなあ。しかし、大した悪人である。

 

  • 当然植民地生まれ、植民地育ち。
  • 裕福な家の生まれ。
  • 勤勉で、1日に15時間勉強したことも。
  • 多くの学校に通い、西洋思想に通じていた。
  • 法廷弁護士になり、黒人の弁護活動に熱心であった。
  • そうはいっても、彼は大きな奴隷プランテーションを持っていた。
  • 彼が建てた邸宅は「モンティチェロ」と呼ばれ、なんと世界遺産だ。
  • 第三代目の大統領になったそうだ。肖像画ではなかなかハンサムだ。

かなり先進的なことを言う人だったようだが、「インディアン民族の強制移住という民族浄化政策を立案した人だったのだ!

フレンチ・インディアン戦争南北戦争で力を失いつつあった先住民に追い打ちをかける政策である。

 

【ジェファーソンのしたかったこと】

  1. 領土拡大。

 

【方法】

  1. 西方の白人のいない土地に先住民を移住させてしまう。 彼らが領土としている土地は白人入植者にとっては肥沃で魅力的な土地だから。
  2. すべての先住民と条約を結び、「国家」として保留地に定住させ、その独自の文化、宗教および生活習慣を捨てさせて、合衆国が監督する「部族政府」を設立させ、白人文化、キリスト教、および定住農耕生活を強制する。(同化政策
  3. 先住民たちにそこを立ち退かせ、「年金(食糧)と引き換えに遠方の保留地に定住させる」。
  4. これに従わない場合、先住民部族は絶滅させる 。

 

【ジェファーソンの予測】

ジェファーソンは、狩猟採集生活を送る先住民達を農耕民として白人と同化させれば、彼らは白人との交易に経済的に依存するようになり、未払いの負債を返すために土地を手放すようになるだろう。と予測した。

 

【保留地】

「保留地」(Reservation)とは、将来すべての土地が合衆国のものとなるまで、内務省が先住民のために「特別に取っておいた土地」のこと。先住民族に西方の白人のいない保留地を与え、移住させてしまうためにある。

 

【絶滅政策の手始め】

  1. 1778年、合衆国と先住民との国家間条約の第一号は、合衆国独立に味方したデラウェラ族を中心とした先住民国家の組織を連邦認定するというものだった。
  2. 先住民との連邦条約を積極的に行い、保留地制度を推し進めた。
  3. チェロキー族やショーニー族といった連合国家を、その先祖伝来の土地からミシシッピ川以西へと強制的に追い出す。
  4. 当時ジョージア州でのチェロキー族は、アメリカ合衆国政府と彼らの領土権の保証条約を締結していた。しかし、ジョージア州が「もし西方に新しい土地を発見した場合」、米軍はジョージア州を全力で援助し、ジョージアからチェロキー族を強制的に追放するという内容も含まれていた。ジェファーソンはジョージア州と結託して先住民の権利を反故にしたのである。
  5. インディアンたちが同化政策に抵抗したならば、彼らをその領土から強制退去させ、白人のいない西部に強制定住させる。

 

アメリカ人のわざとらしい誤解】

ジェファーソンを始め、白人たちは先住民部族の中の「酋長」たちを権限のある首長とみなし、彼らと条約を結べば全部族民はこれに従うものとして、和平委員会と酋長たちとを面会させ、条約の数々に署名させた。この「署名」とは、先住民に「チェック(✕印)」を書かせる、というものである。先住民は文字を持たない。 白人たちは酋長たちの署名をすべての条約の承認ととらえ、これに基づいて強制移住やその他先住民政策を推し進めた。

 

しかし酋長は「部族長」や「首長」ではなく、単に部族の中の「調停者」「世話役」「奉仕者」であった。先住民にとっては「酋長が紙に✕を書いたから見たこともない遠くの土地へ引っ越せ」と強要されても、納得できなかった。白人のゴリ押しは血みどろの「インディアン戦争」を生み、合衆国による民族浄化を激化させていった。

 

「酋長=リーダー」誤認説だが、私は違うと思う。白人は勘違いなどしていない、わざと誤解していたのであろう。酋長の権限がどうであれ、白人は自分に都合のよい理屈を作り、先住民を追い出せればそれでよかったのだから。

 

アメリカ独立宣言書で立派なことを書いている人がこんなことをしていたとは!

「全ての人間は平等に造られている」✕、「すべての白人は平等に作られている」〇

 

参考:トマス・ジェファーソン

 

日本が先の戦争で敗北したとき、アメリカ人は心の底で「日本人の民族浄化」を考えたんじゃないのか~?給食のパンとか牛乳、まずかったよな。最近の子供は給食で「ご飯」が食べられてうらやましいよ。

まあ、パンは根を張ってしまったが、牛丼屋や富士そばに若者が入っていくのを見ると、「ああ、えらいぞ!」と思うのである。

 

今度はトウモロコシのトルティーヤとか流行るのかしらね。

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第3代大統領 Thomas Jefferson

2.1848年、ゴールドラッシュ で踏み込まれる

ゴールドラッシュとは、新しく金が発見された地へ、金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到することである。狭義では、1848年ごろにアメリカ合衆国カリフォルニア州で起きたカリフォルニア・ゴールドラッシュを指す。

 

1850年までに容易に採掘できた金は既に取りつくされてしまい、採掘困難な場所から金を掘り出すことに関心が向けられた。アメリカ人は金を掘り出すのが次第に難しくなったことに直面して、いまだ残る採掘しやすい金鉱からの外国人排除を始めた。新しいカリフォルニア州議会は外国人坑夫の税金を月20ドルに設定する法律を成立させ、アメリカ人探鉱者は特にラテンアメリカ系や中国の坑夫に組織的な攻撃を始めた。

 

さらに、大勢の新参者が先住民の伝統的猟場、釣り場および食物採集地域から先住民を追い出した。自分の生活を守る為に坑夫を攻撃する先住民もいた。そうすると、先住民の集落は反撃された。銃を持たない先住民はしばしば虐殺された。ヤヒ族はそうした白人の虐殺によって根絶やしにされ、絶滅させられた部族のひとつである。

虐殺を免れた先住民達も、その食物採集地域に近付くこともできないままに、飢えて死ぬ者がでた。

 

参考:カリフォルニア ゴールド・ラッシュ

3.インディアン戦争で闘う!

1622年から1890年の間の、アメリカ合衆国における白人入植者による先住民の征服戦争の総称。そして、先住民族の抵抗戦争。

あまりにもたくさんあって、書ききれない。

大平原

 

【1862 ダコタ戦争】

南北戦争の間も白人と先住民族の抗争は続いていた。アメリカとダコダ・スー族の間に最初の大規模衝突が起こった。ダコタ・スー族は、狭い保留地に強制移住させられていたが、アメリカ政府の怠慢で、11年に渡って保留地管理事務所からの食糧配給が滞り、飢餓状態になっていた。

あるとき、狩りから戻る途中の4人の戦士がいざこざで白人農場主の一家を殺してしまい、部族内の合議の結果、窮状に不満のたまっていた他の戦士達に押し切られて交戦となり、ミネソタ州全土を覆う6週間の戦いとなった。500名以上のアメリカ軍兵士と入植者が死んだ。

 

この蜂起で死んだスー族の数は文献には残されていないが、戦争後に303名のスー族が殺人と強姦で告訴され軍事法廷で死刑の宣告を受けた。死刑判決の大部分は減刑されたが、1862年12月26日、エイブラハム・リンカーンの指示によって、ミネソタ州マンカトで38名のダコタ・スー族戦士が絞首刑に処せられた。基本的に保留地政策の欠陥に原因があるこの「暴動」にも、リンカーン大統領は注意を払わなかった。合衆国の無関心によって、先住民はさらに飢えた。またリンカーンミネソタ州からすべてのスー族を追いだすと宣言、スー族皆殺し政策ミネソタと共に行い、ミネソタの彼らの保留地を没収した。

 

【1864 サンドリーク虐殺】

悪名高い先住民虐殺。コロラド州南東部のシャイアン族とアラパホ族のティーピー(移動用住居 )のキャンプを民兵が襲い、およそ150名の男女、子供を殺し、男女の性器や頭の皮を剥いだ。サンド・クリークに住む先住民は連邦政府によってその時に住んでいる領土内での安全を保証されていたが、先住民に反感を抱く白人入植者が暴走したのである。シャイアン族はティーピーに白旗を掲げて不戦の意思を表していたのに、それは無視された。後に連邦議会による調査が行われ、先住民を虐殺した者に対して短期間ではあるが大衆の抗議が続いた。

 

【1876 リトルビッグホーンの戦い】

ダコタ・ゴールドラッシュがブラックヒルズに巻き起こった時に、最後のスー族戦争が起こった。ブラックヒルズ一帯は「ララミー砦の条約」ではスー族の不可侵領土だったが、金が出たあとは白人の荒らし放題だった。合衆国軍はついに条約を自ら破り、スー族の掃討作戦に出た

カスター中佐はスー族、シャイアン族、アラパホー族総計1,500人が宗教儀式のためにリトル・ビッグ・ホーン河畔に野営しているのを見つけた。カスターは功を焦ってこれを奇襲し、「リトルビッグホーンの戦い」となった。本隊とは離れて行動していたカスター将軍の部隊は、戦術的な利点があり数的にも上回った先住民に全滅させられた。先住民戦士には、オグララ・ラコタ族の名高い戦士、クレイジー・ホースも参加しており、シッティング・ブル(戦には参加せず)の勝利の予言によって鼓舞されていた。

 

また、グレートプレーンズの先住民人口減少の背景には、バッファローの絶滅があった。平原の先住民達は衣食住の柱として4,000万頭を超えるバッファローに頼っていたが、1870年代から1880年代にかけて行なわれたMarket huntersと呼ばれる白人とカナダ民族による乱獲で、グレートプレーンズのバッファローは絶滅寸前(750頭)まで追い込まれた。グレートプレーンズでは先住民の生活は成り立たなくなり移住せざるを得なくなったのである。

 

南西部

 

南西部の広大な地域での紛争は1846年から1895年まで続いた。この地域のあらゆる非プエブロ諸族を巻き込み、スペイン系メキシコ人との紛争に続いた。ナバホ族アパッチ族との紛争、軍は5,000名の兵士を投入した。この作戦でアパッチ族ジェロニモと24名の戦士、女子供が1886年に降伏した。なお、ジェロニモは酋長ではない。

 

【チェロキー族の涙の旅路】

各国政府は法律を定め、長い間、狭い保留地に先住民を押し込めて合法を装った。

先住民の領地で金鉱が見つかり地価が暴騰し、それに目をつけた大統領アンドリュー・ジャクソンインディアン強制移住」を定め、アメリカ南東部に住んでいたチェロキー族、セミノール族、チョクトー族、クリーク族をインディアン準州(現在のオクラホマ州のオザーク高原近く)に移動させた。

 

厳しい冬の時期を陸路で、しかも多くの者は徒歩で1,000kmもの旅をさせられたために1万2,000人のうち8,000人以上が死亡した。のちに先住民の間では、この悲惨な事件を「涙の旅路」と呼ぶようになった。

 

ナバホ族の涙の旅路】

ナバホ族も、約483km以上離れたボスケ・レドンドという灼熱不毛の地に徒歩で強制移住させられた。険しいサングレ・デ・クリスト山脈を越え、ニューメキシコ州をほぼ完全に横断するこの旅路は「ロング・ウォーク」と呼ばれる。彼らはそこで農耕を強制されたが、やせた砂漠の土地での農耕は不可能であった。

 

バルボンシート酋長は粘り強く異議申し立てし、1868年、部族は元の地に帰ることを許されたが、その理由は、ナバホの土地が白人にとって当時は価値のない砂漠だったからだ。この往復路で女・子供・老人を含めた数百人のナバホの民が死んだ。故郷には戻ったものの、そこにはすでに近隣のホピ族が住み着いてしまっており、ナバホ語での地名は失われてしまった。また、現在も続くナバホとホピの土地紛争の原因となっている。

 

【クレイジー・ホースとジェロニモ

先住民はアメリカ政府との間で一方的な条約に署名させられ、さらに政府側が一方的にそれを破ることを繰り返した。先住民の中には連邦政府の側について、抵抗する先住民を非難する者もあった。

こうした状況の中で、決して条約に署名しなかったラコタ族のクレイジー・ホース、開拓者を震え上がらせたアパッチ族ジェロニモらの抵抗は一定の戦果をあげたものの、結局は米国陸軍の兵力によって屈服させられた。

 

 

…まだあるんです…

4.フロンティアの消滅を宣言される

 

【先住民の抵抗の終わり】

1890年、サウスダコタ州ウーンデッド・ニーで、ミネコンジュー・スー族の「シハ・タンカ・バンド」に対し、米軍の第7騎兵隊が行った虐殺。兵士達はおよそ300名の非武装の老若男女の先住民を殺した。死亡した29名の兵士には、友軍の銃撃で死んだ者もいる。

本当にうんざりします。→ ウーンデッド・ニーの虐殺

 

ウンデッド・ニーの虐殺により、白人によるインディアン戦争は終結した。最終的には推定1,000万人いた先住民は白人の直接・間接虐殺により実に95%が死に絶えた。

 

【フロンティアとは】

19世紀にアメリカ合衆国が西に向けて領土を拡大する過程で、開拓の最前線の「文明と未開の境界線」をフロンティアと言った。

アメリカ合衆国のフロンティアは、1890年に消滅したとされている。つまり、もう開発するところが亡くなったということで、それはアメリカ先住民を駆逐したということになる。すべて奪ってしまったのだ。

このフロンティアの消滅と同時に、新たに海外領土・植民地を獲得するというアメリカ帝国主義の時代が開始されることとなる。 貪欲ですねえ!

 

殺されずに運よく生き延びた先住民は、荒野や山岳に指定されたリザヴェイションに押し込まれた。現在286あるリザヴェイションは、アリゾナニューメキシコを除くと、あとは小さくひっそりとしている。‥‥市民権を与えられたのは遙か後の1924年のことであり、投票権に至っては第2次大戦後の1948年なのである。<猿谷要『物語アメリカ史』中公新書 p.122-3>

 5.20世紀以降、さらに奪われる

【BIAの悪行】

1820年代に、連邦政府は「保留地」管理のために、アメリ内務省直轄のBIA(インディアン局)を設立していた。保留地にはBIAの出先機関として「管理事務所」が置かれ、ここへ派遣された白人の保留地監督官が、保留地内のインディアンのすべての行いについて「監督・指導」するようになった。反抗的、不穏な部族や指導者は軍に呼ばれ、虐殺された。(シッティング・ブル、クレイジー・ホース、、、)

 

儀式のほとんどがキリスト教的でないとして弾圧・禁止され、シャーマンや占い師は殺害された。狩猟も禁止され、慣れない農業を押し付けられた。 「年金」として、保留地事務所より、肉牛などが支給されるはずだったが、BIAの保留地監督官によって戦略的に横領され、常に数が不足していた 。農業経験のない先住民達は飢え、冬をしのぐために種牛にまで手をつけざるを得ず、飢餓は年次倍増していった。

 

1950年代、合衆国は“ターミネーション”と呼ばれる連邦管理終結政策を遂行した。BIAは、部族による土地共有を根こそぎにしようと、保留地に住むインディアンを都市中心部に転住させる大規模な施策に着手する。これは部族の自治権を奪って、先住民諸部族を連邦と州の法律に従わせる同化政策の一種であり、新型の「清掃」政策であった。この転住政策は、政府が先住民への責務から逃れるための方策でもある。

 

1960年代、全米の先住民部族は絶滅的危機にあった。100を超える先住民部族が連邦条約を打ち切られ、保留地の使用を打ち切られ、路頭に迷うこととなった。都市部のスラムに流入した先住民たちは極貧の生活の中、白人社会の人種差別と暴力にさらされ、ささいな理由で刑務所に送られた。ミネソタ州の刑務所の囚人の7割は常に先住民が占めていたのである。

 

危機感はしだいにつのり、1968年代初期、刑務所暮らしを強いられた若いインディアンたちによって団体「アメリカインディアン運動」(AIM) が作られ、「レッド・パワー」運動が始まった。1960~1970年代は、オルタナティヴ・アメリカンの運動が盛んであった。

 

ニクソン政権とレッド・パワー運動】

リチャード・ニクソン大統領は、こうしたインディアン達の権利回復要求交渉に対し、まともに耳を傾け取り組んだ。「レッド・パワー運動」とニクソン大統領とは切り離して語れない。ニクソンは1954年からのBIAの部族解体方針を打ち切り、メノミニー族、ピクォート族の復活を認めている。 アメリカ人の二重底。

 

1977年は、ニクソン政権の実行した宥和政策を次々に撤回したカーター政権によって、ニクソン以前の「インディアン根絶政策」の復活・総括が図られ、アメリカ上下両院議会で「保留地の解消」や、「インディアンの自治権剥奪」など多数の法案が相次いで上程された。AIMのみならず、全米のインディアン部族の運動団体がワシントンDCに集まり、最大規模の抗議行動が行われた年となった。

 

この抗議行動のなかで彼らが「最大の民族的危機のひとつ」として掲げたのが、「インディアンという名称の剥奪」だった。飢えたプリマス植民地の移民たちに食糧を与えて保護し、農業を教え、生存の手段を与えた「インディアン」も、リトルビッグホーンの戦いでカスター中佐と第7騎兵隊を破った栄光ある「インディアン」も、「アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)」という名称へのすり替えによってその存在が無視され、「保留地」や「自治権」ともどもアメリカの歴史から抹消されていくという、民族浄化に対する危機である。こういった背景から同年、先住民代表団は国連で「我々の民族名はインディアンである」と決議表明を行っている。

(「インディアン」を使うべきだった!!)

 

白人はすべてのよい土地を奪い、アメリカ先住民を殺し、まったく関係のない土地に移動させ、部族の言葉・習慣を奪い、白人と混血・同化させることで、見事にアメリカを奪い切ったのである。

 

現在、アメリカ先住民・アラスカ先住民の割合は1.2%である。

 

6.カンザス州での出来事

 

現在のカンザス州となっている地域には、1000年以上にわたって先住民が住んでいた。「カンザス」は、この地に先住したカンサ族に由来する。部族名「カンサ」は「風の民」あるいは「南風の民」を意味するなど諸説ある。(monolithに入っていますね)

 

1541年にコロナド遠征隊(スペイン)が来たが、金などなにもない場所だったので撤退した。 340人のうち、100人しかメキシコに帰還できなかった。

 

1803年から アメリカ合衆国をはじめいろいろな国の領土となり、1848年にやっとアメリカ合衆国の領土になった。

 

1.1854年1861年、血を流すカンザス

カンザス準州奴隷制度可否をめぐる住民投票が行われることになり、複数の州からそれぞれの思惑をもって開拓者がやってきた。

ミズーリ州アーカンソー州からは奴隷制度を州内に広げるために。

続いてマサチューセッツ州など自由州からの奴隷制度廃止運動のために。隣接するミズーリ州から奴隷制度が拡大されてくるのを止めようとした。

 

これら開拓者が武力で衝突し、「血を流すカンザス」と呼ばれる小さい争いが頻発した。これらの戦いが、南北戦争の前哨戦になった。

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奴隷解放論者 John Brown

ジョン・ブラウン奴隷制度廃止運動家である。しかし穏健派ではなく、運動の手段としてアメリカでは初めて「反乱」を提唱し実行した人物である。奴隷制度廃止運動によって奨励されていた平和主義には満足せず、 「こいつらは口先だけだ。我々に必要なことは行動だ-行動だ!」と言ったそうだ。

 

彼はニューヨーク州にいたが、ある日カンザス準州にいる息子達から、カンザス準州奴隷制度賛成派に危険を感じるとの知らせが入った。彼はカンザス準州に向けて旅立った。道々、寄付を募ったり武器を募ったり、仲間まで増やしてカンザスにたどり着いた。しかし、奴隷制度賛成派と廃止派の力は拮抗し、小競り合いが続いた。

 

1856年5月24日、ジョン・ブラウン達は奴隷制度擁護派の開拓者5名をポタワトミー・クリーク の小屋から連れ出し、幅広の刀で叩き切った。ブラウンと残った者たちが近くの森に隠れている間にミズーリ州部隊はオサワトミー(カンザス州東部の町 )を略奪し燃やした。ブラウンは敗れたものの、圧倒的な敵に対してその勇敢さと戦闘における抜け目のなさが国民の注目を集め、北部の奴隷制度廃止論者にとっての英雄となった。その後、家族や仲間を含めてゲリラ戦を続けたがバージニア州で捕まり、絞首刑となった。

参考:ジョン・ブラウン

ジョン・ブラウンのこの絵はカンザス州トピーカの州会議事堂にある大壁画である。カンザスの誇りの事件なのであろう。

カンサスの1枚目のアルバムのおじさんはこの方である。

 

2.先住民の今

この州の先住民のほとんどは、19世紀初頭に、東部森林地帯からアメリカ政府によって強制移住させられてきたものである。こののち、オッタワ族、デラウェア族は1866年、クアポー族(アーカンサス族)、ソーク族、ワイアンドット族は1867年にオクラホマ州強制移住させられた。残る部族も1887年制定の「ドーズ法」で保留地を没収され、ほとんどが絶滅指定された

州名の由来となったカンサ族(コー族)自体は、1872年にオクラホマ州強制移住させられ、部族としては同州にはいない。

アメリ連邦政府から公認を打ち切られている(絶滅指定されている)部族は、保留地を持つことが出来ない。多くの部族が公式認定を求めアメリ内務省と交渉中である。

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3.カジノ

 

カンザス州では、5つの部族がインディアン・カジノを運営している。

ワイアンドット族は、連邦から公認されていない部族であるが、2003年8月に部族共同体の伝統墓地の駐車場に移動型カジノの営業を始めた。2004年、州司法長官はカジノを強制閉鎖させ、152台のスロットマシンと50万ドルの現金を押収した。

ワイアンドット族は州と関係当局を告訴し、これに完全勝訴。2007年より7番街のフリーメーソンの廃寺院を使って、部族カジノは再開された。連邦保留地を持たない部族が自前で建物を買い、カジノを開くという事例が実現することとなった。

参考:カンザス州

 

今や、インディアン・カジノは先住民の生命線である。政府から認められている部族でも、限られた保有地でどう生活するのかは問題である。

さらに連邦認定を解除された「絶滅部族」は、保留地を没収されるのでカジノを作る場所さえない。 「絶滅部族」とされたならば、誰の助けもなく外に放りだされることになるのだ。上記ワイアンドット族はうまく頑張った例であろう。

 

先住民にギャンブルをやらせるなんて、、、しかも、仕方ナイネ、なんて顔をして許可出してるなんて。絶対いい死に方をしないだろう。

 

…でもインディアン・カジノ、行ってみたいなあ~。

 

そして、カンザス州は昔からアメリカにおける田舎の代名詞なのだそうだ。あるハーバード大の教授も、カンザスの農村を魅力に乏しくもっとも住みたくない鄙びた地域の典型として挙げているそうだ。

 

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カジノ

 

www.500nations.com

www.boothillcasino.com

7.何故カンサスはイモ扱いされるのか

1.「アメリカン・ドリーム」

この言葉には悪のにおいがする。

’’ アメリカン・ドリームとは、アメリカ合衆国における成功の概念。均等に与えられる機会を活かし、勤勉と努力によって勝ち取ることの出来るものとされ、その根源は独立宣言書に記された幸福追求の権利に拠る。 ”

引用:Wikipedia アメリカン・ドリーム

 

1802年、西部開拓時代に先立ち、アメリカ第6代大統領ジョン・クィンシー・アダムズは、プリマス上陸二百年祭の演説において、「帝国の進路は西を目指しゆく」と叫んだ。大西洋岸に到着した彼らの夢は、際限なく広がる「未開」の西の大地へ向けられた。貧乏な人は自営農として、自分の家を持つことが重要だったのだ(今でも)。

 

少し脱線するが、このアダムズさんは先住民にたいしては、インディアン条約を守り、その領土を「購入」するべきだと考えたのだ(先住民の考え方とはそぐわないにしても)。しかし詐欺的な交渉をやり直すといったアダムズの決定に、南部白人や西部白人は激怒したという。

1828年の大統領選挙では、「史上最悪の中傷合戦」が展開され、アダムズは落選。代わって大統領となったのは、インディアン虐殺で名を上げ、インディアン達をその冷酷残忍さで震え上がらせたアンドリュー・ジャクソンった。ジャクソンはアダムズのような生ぬるい態度をとらず、問答無用でインディアンを武力で虐殺制圧し、ミシシッピ以西への強制移住を実行したのである。この政策は白人入植者から絶賛された。わからない。アメリカ人の二重底。

 

もう一つの定義。

アメリカ先住民を虐殺し、流れ者と戦いながら開拓し、生活用品は豊富な森林から自分で生み出すと言う移住者には、共通する開拓者精神、いわゆるフロンティア・スピリットが生まれ、これがアメリカ人としてのアイデンティティアメリカン・ドリーム」となって現在まで受け継がれている。”

アメリカ・インディアンの歴史”

 

私の頭には、テレビドラマの「大草原の小さな家」が浮かぶ。州から州へ、土地をもとめてさまよう開拓者の一家。お父さんはまじめで強くてやさしい人。お母さんは気丈で明るい人、お裁縫も上手だ。長女は美人で賢く、次女はいまいちだが主人公。幼児と養子の男の子がいる。詳しい事情は知らないが、両親はイギリスからやってきた人たちなのかな?

お父さんはすごく働く、耕したり木を切ったり、家畜の世話をしたり。子供たちは教会の学校へ行く。この人たちはフロンティア・スピリットとやらを持っていたんだな。

そして、団らんのときにはバイオリンを弾くのだ。本だと、バイオリンをひいてもらいながら「パパのひげが好き」とか言ってやがる。

 

中学校の偽の友達にこのドラマが好きな子がいてね、「アーリー・アメリカン」が好みらしく、一度遊びに行ったら部屋がアーリーだったわ。「血まみれのアーリー・アメリカンね」と言ってやればよかったわ。まあ、お互い、イモでしたけど。

 

アメリカン・ドリームの延長に、二流映画から見える切ない地方都市の生活や、スティーブン・キングの小説から想像する寂しい暮らしがあるのだね。

それに、移民を入れたくないのも、銃を離さないのもわかってきた。

領土、命!」なのだ。

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第7代大統領 Andrew Jackson

インディアン強制移住政策の跡継ぎ。コロンブス並み。
「女を生き残らせるとまた部族が増える」との考えから、特に女(乳幼児、女児を含む)を徹底的に殺すよう全軍に命じた。
テネシー州プランテーションで100人以上の黒人奴隷を所有しこれを酷使していた。

2.カンサスはイモか?

これを書いている間ずっとカンサスを聴いていたので、カンサスの「デビュー40周年(2015年時)記念DVD」が見たくなり、つい買ってしまった。主に「Leftoverture」が大ヒットするまでの状況がインタビューで綴られている。売れないバンドのサクセスストーリーである。(面白いので、ファンの人にはお勧めします。)

 

メンバーが皆、当時のカンザス州での暮らしについて、こんな感じのことを言うのである。

「皆トピーカの隅っこに住んでいて、町の外はもうずっと畑、畑。行くところがない。自然に家の中で過ごすことが多くなる。 」

「家に鍵なんかかけたことがない。」

「ロサンゼルスに行ったときには何もかも違って、ものすごく驚いた。」

「ここは西海岸でも東海岸でもない、中西部だ。何もないんだ。」

 

カンサスは大ヒットするまで、中西部を回り続け、年に250日くらいライブを行っていた。大体前座だったようだ。その結果、中西部の若者がカンサスを認めたのだ。彼らリスナーは大平原で、例えばイーグルスを聴いても、少し悲しい感じがしていたのではないかなどと想像する。

 

カンサスのメンバーはみんな分厚い。BowieやMickやピーガブのように薄くない。それにステージ衣装があか抜けない。オーバーオール、日本の着物、軍服めいたもの、結婚式で着るようなひらひらのついたシャツにスーツ、着古したようなTシャツ、とどめはサッカーのユニフォーム。皆好き勝手にやっているようだ。これはどうしたことか。

例えば、Mickの衣装は相当おかしいが、かっこいい。Mickは自分を下品に見せようとしているし、観ているほうもそれがわかっている。私は下品に振舞うMickが好きなのだ。

 

ところが、カンサスのそれは意図的なのか自然体なのか判断がつかない。でも、いずれにしても、そのいでたちは「中西部」を表している気がしてきた

彼らにすれば、西海岸・東海岸との対比として、「田舎っぽい」「イモ」と言われることは狙い通りなのだ。かっこいいサブカルチャーのなかった中西部でできたプログレバンドだけれども、中西部だからかっこよくなったら意味がないのだ。

 

また、カンサスのレコードジャケットにはアメリカ先住民が登場するが、それが彼らの音楽にそれほど関係するとは思えない。Livgrenは「イメージとしてはあった」とは言っているが、以前「Seeds of change-Kerry Livgren」で書いたように、その頃の彼の頭の中は東洋思想とThe Urantia Book でいっぱいだったからだ。先住民に対しては無関心なように見える。

 

演奏は、先行バンドの音楽の上にライブで鍛えた技術とアメリカ・ロックの骨太さ、キレ、独自性がありなかなかよいと思うのだが。

 

 

奇跡(ミラクルズ・アウト・オブ・ノーウェア)(完全生産限定盤)(DVD付)

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---------------------------------カンサスは今もPhill Ehart が続けています。HP、よくできています。↓


3.Song for America


Kansas - Song For America

参考までに挙げておきます。長いです。

やっぱりイモなんだな…と思っていたところに、ふっとLivgren様の霊がおりてきた。まだご存命なので、生霊である。

「Song for America、聞いたか?」

む、忘れていた。敬遠しがちなタイトルだからまじめに聞いていなかった。

 

Song for America 歌詞

アメリカン・ドリームを讃える「アメリカ賛歌」だと思うでしょう?なんかちがうんですよ…

 

♫大変美しい土地に、放浪者が来て、次に多くの帆船が来た。略奪、強姦、殺人、伐採。

(間奏)

今や高速道路やビルディングが立ち並び、多くの人間がいる。疲れ切った戦いが今また始まろうとしている 。♫

 

メロディが悲惨ではないので全く気付かなかったが、これまで振り返ったアメリカの黒歴史の歌だったのである。『略奪、強姦、殺人』が南北戦争のことなのか、インディアン戦争のことなのかはよくわからない。しかし、もし先住民にされたことを歌っているのだったらそれはもうRockではないだろう?

 

間奏がしつこいくらい長い。その間、バイオリンが鳴りっぱなしである。それは、あの善人開拓者、ローラのお父さんのバイオリンだ。

 

悪意のない破壊者のお父さんが、ずーっとバイオリンを弾いている。

 

気が重くなる。

アメリカ人は案外奥深いのかもしれない。

そして、カンサスはイモじゃない気がする。

 

終わり。
                                 (2019/10/11)

 

参考図書:

アメリカ・インディアンの歴史―ビジュアルタイムライン

アメリカ・インディアンの歴史―ビジュアルタイムライン

 
アメリカ・インディアン・文学地図―赤と白と黒の遠近法

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小さな家のローラ

小さな家のローラ

 

 参考サイト:

sites.google.com服部奈美さんという方がまとめている立派なサイトです。あのドラマがなんだかイヤだった、という方は読んでみてください。