koorogi_ahmdoのブログ

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「カンサス=トットリーンズ事件」2

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これは、前回書いた「カンサス=トットリーンズ事件1」の続きである。

本題は「何故カンサスはイモ扱いされるのか」であるが、前回「まずはアメリカの歴史を知らなければ!」という気持ちに行きついたところで終わっていた。

(詳細は過去のブログを参考にしていただければうれしいです。)

 

ahmdo.hatenablog.co↑ 超簡略年表もありますのでご覧ください。 

 

4.アメリカ合衆国独立まで

アメリカ大陸にはインディアンやインディオなどのモンゴロイド先住民族が一万年以上前から居住し、独自の文明を築いていた。「アメリカ大陸の発見」という言葉は、ヨーロッパ中心で世界を見ていることをあらわしている。私は学校で「新大陸の発見」 と教えられたが、ヨーロッパとアメリカの視点で学んだということだ。

  

1.1492年、アメリカ先住民がアメリカに来たヨーロッパ人を発見

コロンブスたちがしたことと、先住民がされたこと】

①到着したサン・サルバドル島で先住民のアワラク族から歓待を受け、物々交換する。アメリカ先住民は物の所有にあまりこだわらない。ただ、コロンブスは黄金がほしかったので、先住民を奴隷とし、略奪し、南に向かった。

②2度目のコロンブスの軍隊上陸時には、行く先々の島々で、まるでスポーツのように、動物も鳥も先住民も、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。コロンブスイスパニョーラ島でしばらく病に臥せると、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、窃盗、殺人、強姦、放火、拷問を駆使して、アメリカ先住民に黄金の在処を白状させようとした。 コロンブスが何カ月も病に臥せっている間、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。

→ 5万人以上のアメリカ先住民が死んだ。

③3度目の上陸時には、スペイン人の持ち込んだ病に倒れ非武装だった先住民の村々を徹底的に攻撃するよう指揮した。

→数千人単位が虐殺された。

コロンブスの襲撃戦略は、以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった。

コロンブスは、イスパニョーラ島の先住民部族の指導者と睨んでいた一人の酋長を殺さずに、引き回しの刑と投獄のあと、鎖に繋いで船に乗せ、スペインへ連行しようとした。

→しかし他の先住民たちと同様に、この男性は劣悪な船内環境の中、セビリアに着く前に死んだ。

コロンブスは奴隷を連れて国に凱旋するが、なぜかイザベル女王の顰蹙を買った。彼は死ぬまで到着した島がアジアだと信じていたという。

コロンブスの上陸時に約800万人いたアメリカの人口は、1496年の末までに、その3分の1までに減った。さらに1496年以降、死亡率は倍加していった 。

 

【その他】

コロンブスの虐殺行為については、先住民に対する人種差別的 、「ヨーロッパの傲慢な本質」を体現している、などの見解がある。

 

アメリカ合衆国の記念祝日である10月12日、「コロンブス・デー」は、アメリカ先住民にとっては「白人による侵略開始の日」に他ならない。1911年にアメリカ先住民運動家たちは「アメリカインディアン協会」を設立し、「全米インディアン・デー」を提唱。オハイオ州コロンバスでの第一回決起大会において、『インディアンが白人のアメリカを発見した日!』とのスローガンを掲げ抗議した。

参考:先住民族の日

 

ja.wikipedia.org コロンブスって、最低。

 
 

2.1523年にフランス人との毛皮取引 、1576年にイギリス人との毛皮貿易が始まる

毛皮は、アメリカ先住民同士の交換物であったが、ヨーロッパ人が交易に参入しヨーロッパにまで届いた。 フランス、イギリス、オランダ、スペイン、ロシアは毛皮交易で競合した。

 

毛皮交易は、交易者とフランス本国に富をもたらす一方、かかわった先住民の生活を変えた。ビーバーの原皮や他の毛皮と、ヨーロッパの品々(鉄器、銃器含む)が交換され、先住民の生活水準は飛躍的に向上した。その後、セントローレンス川沿いのビーバーは壊滅状態となり、毛皮獣が豊富なカナダ楯状地への立ち入りを巡って、先住民同士の抗争が激化した。

獲物を巡っての争いで、先住民が先住民を殺したり捕虜にしたりした。絶滅寸前となった先住民族もあった。

また、いつも通り、フランスから持ち込まれた新手の伝染病により多くの先住民が死亡し、戦闘と病気で彼らの共同体は破壊され、彼らの勢力図も変わっていった。白人が持ち込んだ「酒」も、先住民をむしばんでいった。

 

アメリカに住んでいた多くの先住民諸部族にとって、毛皮交易は主な収入源であった。しかし、1800年代の半ばには、ヨーロッパの流行の変化により毛皮の価格は大暴落、アメリカ毛皮会社は低迷した。多くの先住民たちが長期にわたる窮乏生活に陥れられ、その結果、彼らが持っていた政治面での影響の大部分を失った

参考:北アメリカの毛皮貿易

 
 

 3.1620年、イギリス移民(メイフラワー号)到来 、本格的な略奪が始まる

メイフラワー号に乗船したピルグリム・ファーザーズが、イギリスから新天地アメリカの、現在のマサチューセッツ州プリマスに渡ってきた。乗客は102名、乗組員は25から30名だった。 病気に苦しめられた厳しい旅だったようだ。

 

【感謝祭】

入植当初の状況は厳しく、イギリスから持ってきた野菜や小麦は収穫にとぼしかったため、翌1621年の4月までに半数程が病死した。ピルグリム・ファーザーズが上陸した土地には先住民のワンパノアグ族が暮らしており、ピルグリム・ファーザーズに食糧や物資を援助した。ワンパノアグ族のスクアントは英語を知っており、ピルグリム・ファーザーズに狩猟やトウモロコシの栽培などを教えた。

1621年には収穫があったため、ピルグリム・ファーザーズは収穫を感謝する祝いにワンパノアグ族を招待した。祝宴は3日間におよび、料理が不足すると、ワンパノアグの酋長マサソイトは部族から追加の食料を運ばせた。この祝宴が感謝祭のもとになったと言われている。ニュー・プリマスはやがて、発展するニューイングランドの最初の植民地となった。

 

しかし間もなく、白人たちは入植範囲を拡げ始め、先住民との間で土地と食料を巡って対立が発生し、戦闘が起きるようになった。 ワンパノアグ族の酋長マサソイトは、平和と友好を保つためにピルグリムと条約を結んだ。

ピルグリムは1630年にマサチューセッツ族の領土に進入。白人が持ち込んだ天然痘により、天然痘に対して免疫力がなかったマサチューセッツ族の大半は病死した。

 

【1636年、ピクォート戦争】

1人の白人がピクォート族に殺された事がきっかけで発生。白人は容疑者の引き渡しを要求したがピクォート族がそれに応じなかったため、その村を襲い、大量虐殺を行った。

 

【1675年、「フィリップ王」戦争】

急激に増加した白人は、先住民にその土地を売るように要求、キリスト教への改宗を強制、先住民に不利な裁判を行うなどし、先住民の反感を買い始めた。先住民には「土地を売る」という概念はそもそもなかったし、個人の選択として宗教を受け入れることはあったが、部族全体を従わせようとするヨーロッパ人の思考は先住民には理解不可能だった。

 

ワンパノアグ族の酋長マサソイト死後、白人は先住民が住む土地にまで入植地を拡大して行った。そのためマサソイトの長男ワムスッタ(新酋長)は「調停者」たる先住民の酋長の役目として、入植者が父マサソイトに要求して結んだ入植の土地の譲渡と和平条約に異議申し立てをプリマス入植地で行い、侵略行為を止めるよう説得した。が、プリマス入植地から村に帰る途中、ワムスッタはなぜか病気(毒殺されたとも言われる)による謎の死を遂げてしまう。

 

そして新たに24歳のワムスッタの弟メタコメットが新酋長になると、入植者との関係はさらに悪化して行った。メタコメットも兄と同様に、調停者として最大の努力を払い、白人との友好関係を続けていくことに苦心していた。

 

しかしついにワンパノアグ族とメタコメット酋長は、合議の結果、部族の土地を侵す白人に対して宣戦布告の準備を始めた。1675年6月25日キリスト教に改宗したワンパノアグ族で、ハーバード大学のインディアン・カレッジで学んだジョン・ササモンが、プリマス入植地の総督ジョシア・ウィンスローに「ワンパノアグ族のメタコメット酋長が白人に対して戦争準備をしている」と通報したが、その後ササモンは別部族の先住民に殺されてしまった。

ワンパノアグ族は、ニアンティック族、ペナクック族、ノーセット族らワンパノアグ族と同盟を結んでいた部族と共同して、プリマス入植地を攻撃した。攻撃された入植地の白人側も武装して、ワンパノアグ族と敵対するモヒカン族やモホーク族などの部族を味方に付け全面戦争が勃発。先住民側にはニプマック族やナラガンセット族も参戦。ナラガンセット族はプリマス入植地総督のウィンスローに部族の婦女子を大虐殺されており、恨みを持っていた。

 

戦争はマサチューセッツ植民地とコネチカット植民地を引き込んでのニューイングランド全域に及んだ。先住民側は52の町を襲撃し、12の町を壊滅させた。1676年に入ると、ニューイングランド植民地連合軍は、植民地で採用された民兵ミニットマンを活用し反撃した。ナラガンセット族のカノンチェット酋長(白人は彼を指導者と見ていた)が1676年4月3日に逮捕及び処刑され、白人に対して反旗を翻し戦いを挑んだワンパノアグ族のメタコメット酋長が3ヵ月後の8月12日に戦死し、入植者側が勝利する形で戦争は終結する。

 

戦いで600人の白人入植者と4000人以上の先住民が死んだ。戦死したメタコメット酋長の遺体は白人達により八つ裂きにされ、首は槍の先に突き刺され、白人達の村に24年間飾られた。そして捕虜となったメタコメット酋長の家族を始めとする先住民達は奴隷として西インド諸島などに売り飛ばされて行った。

入植者はメタコメットをただの「戦争を始めた首謀者」と見なし、理不尽な辱めをこれに与えて勝利を祝ったのである。

引用:フィリップ王戦争

参考:マサソイト

 

彼らはピューリタンの中の「非国教徒」一派であり、信教の自由を求めてこの船に乗ってやってきた。そのため、アメリカ合衆国にとってメイフラワー号は信教の自由の象徴であり、歴史の教科書で必ず触れられている。先祖がニューイングランド地方出身というアメリカ人は、メイフラワー号の乗客の末裔だと信じていることがよくある。

 

なんなんですかね、これ。清教徒って清くないのでは?

 

【アダムズ・ファミリーⅡより】

7m45sくらいからご覧ください。
「あなた方は私たちから土地を奪った。何年か先、私たちはトレーラーハウスでの暮らしを強いられるだろう。あなた方がゴルフをし、酒を飲んでいるとき、私たちは道端でブレスレットを売っているだろう。」 こういうことを言わせるアメリカ映画にはびっくりしますね。
Wednesdayちゃん、かわいいですね。しかし、私は太った七面鳥の弟が好きです。
 
 

 4.1755年、七年戦争フレンチ・インディアン戦争 に巻き込まれる

東海岸にはイギリスの植民地ができ、北のカナダや西のルイジアナにはフランスの植民地ができた。ヨーロッパでイギリスとフランスが戦うと、植民地でも戦争が始まった。ヨーロッパが七年戦争をしている時には、北米ではフレンチ・インディアン戦争が戦われた。

これは、イギリスにとっての「フランス王国&同盟を結んだ先住民」との戦争という意味で、実際は「フランス王国&同盟を結んだ先住民」vs「グレートブリテン王国&同盟を結んだ先住民」の戦争である。この戦いでフランスは敗れ、カナダをイギリスに、ルイジアナをスペインに奪われた。

 

戦争が始まると先住民は英仏のどちらにつくかを迫られ、どちらが勝っても領土は没収された。北米東海岸を制圧したイギリスは、先住民を追いながら西へ領土を拡大していった。

 

 

5.1783年、先住民が住んでいる土地にアメリカ合衆国ができてしまう

1763年、イギリスは国王ジョージ3世の名で「国王の宣言」という植民地政策を示した。

イギリスがフレンチ・インディアン戦争で獲得したルイジアナでの先住民の反抗を緩和させるためのものであったが、イギリス人入植者は大いに不満だった。

  • 東はアレガニー山脈から、西はミシシッピ河まで、南北はフロリダの北から五大湖を含む地方をイギリス王の直轄地とする。
  • そこはインディアン保留地とし、植民地人の移住を当分の間禁止する。
  • 植民地は現地でとれる原料品を本国に送らなければならず、現地で加工してはならない。
  • 他国の植民地と交易してはならない。

入植者には、辺境で思うように活動する自由-狩猟をし、先住民との貿易を行い、毛皮を集め、また、ぼろいもうけ仕事をさがしたり、あるいは、土地を手にいれるために、勝手にぶらつき歩いたりするという自由が、もはやなくなることを意味していたのである。

 

これを歓迎した先住民諸部族は、1775年にアメリカ独立戦争が始まるとイギリスを支援し、アメリカ独立軍と戦った。しかし、アメリカ合衆国が勝利してしまい、1783年のパリ条約でミシシッピ以東のルイジアナアメリカ領に編入され、『アメリカ人』の手による先住民の土地の略奪、殺戮が始まった。

 

極論すれば、アメリカ合衆国の独立は『先住民の土地を略奪する自由』をイギリスから獲得するための戦いであった。従ってその独立宣言、さらにアメリカ合衆国憲法に先住民の存在を認める発想はそもそもなかったのである。

引用:世界史の窓

 
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うわあ、、、まだまだ略奪は続くんです。イギリス人はスペイン人に負けていませんよ。

でも、もう疲れました。いったん休憩します。

ドロシーおばさんは、あと3回くらい書かないとカンサスに戻れません。

 

つづく。

(2019/10/6)