koorogi_ahmdoのブログ

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Aucklandの女 その1

1.出会い

この秋、ニュージーランドに行った。そして、在NZの友人・Aさん(日本人)に会うことができた。

 

Aさんとは7年前、フィリピンで出会った。細長い手足の、きれいな子だなと思った。私たちはちょっとした用事で、一か月間フィリピンに滞在していた。

ある日、彼女が濡れた髪のまま私の部屋を訪ねてきた。シャワー室で、落ちていたガラスで足を切ってしまった、救急絆創膏はないか、と。多分それからよく話すようになった。

Aさんはいろんな情報を教えてくれた。

「こおろぎさん、知ってますか。あの売店でビールが飲めるんですよ」

「あそこのセブンスター切れてました」

「隣に居酒屋がありますよ」などなど。

そうして私たちは毎日欠かすことなく、道路を横断してガソリンスタンド横の売店に行き、サンミゲルを瓶で1本だけ飲んだ。

 

そして一か月後、解散。日本で数回会ったが、ある年に彼女は一人でNZに行ってしまった。

 

この秋、テレビでラグビーの試合をやっていたせいか、前回の失敗旅行を思い出したせいか、NZでAさんに会いたいと思った。AさんはWelcomeと言ってくれた。 

ahmdo.hatenablog.com

 

2.Aucklandの印象

Aさんはオークランドに5年も住んでいるので、相当詳しい。その都市の決まりも、その国での生き方も十分身につけていた。

 

Aさんは私の観光計画を立ててくれ、仕事の合間をぬって街を案内してくれた。以前オークランドにも来たはずなのだが、何も記憶がなかった。メイヤーズ・パークという公園を見下ろすこじゃれたビルに連れて行ってもらったときに、初めて「来たことがある」と感じた。前回はその公園をぶらぶらしていたが、Aさんによると「絶対行ってはいけない危険な場所」なんだそうだ。そういう凡ミスを犯していたとは。

 

繁華街はにぎわっていて、景気は良いようである。治安もそんなに悪くなさそうだ。日本車が多い。
小規模な商業地が散在しており、バスでつながっている。市街地はこぎれいで、イギリス植民地風の木造住宅が多い。私には「涼しいマレーシア」に見える。

 

人は?白人、マオリ、東洋人、国籍不明な感じである。よって、たいていの人は私のことを観光客だと認識してくれず英語で話しかけてくるので困る。なお、公用語は英語・マオリ語・NZ手話である。先住民のマオリを尊敬して。そして、自由で平等で社会保障の手厚い国だということだ。私は懐疑的になった。そんなことがありえるか?

 

今回のこだわりどころは以下の二点である。
①先住民のマオリは、イギリスを相手にどのようにして生き延びたのか?(アメリカインディアンとは異なる末路である。)
②他民族でよい国家になるのか?

 

3.ニュージーランドの歴史まとめ

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※時代のイメージをとらえるため、アメリカと日本の出来事も掲載した。

 

【1642】NZは、ヨーロッパ人がアメリカ大陸を「発見」してから200年後に「発見」されている。
発見したのはオランダ人探検家アベル・タスマンだが、水や食料の補給中にマオリ族と争いになり、船員4名と数名のマオリ族の死者を出した。 多分怖くなって上陸せずに戻った。その後オランダの州にちなんだ “Nova Zeelandia” (ラテン語)でと呼ばれるようになった。「ゼーラント」はオランダ由来の言葉らしい。台湾にはオランダ統治時代、1624年に建てられたゼーランディア城というのがある。鄭成功 という人がオランダに勝利し、現在は安平古堡として観光地になっているが、オランダも他欧州の国に負けず植民地拡大に努めていたわけだ。

 

【1769】100年以上のちに、イギリスの探検家ジェームズ・クックが、 ヨーロッパ人として初めて上陸。
クックは北島、南島の全海域を周航し、正確な海岸線図を作成した。 交易・捕鯨・宣教などを目的とした来訪者が増え、イギリスだけでなくアメリカ、フランスなど様々な国籍の船舶が停泊する港町へと変貌した。クジラ・アザラシ・オットセイなどが取引され、南島の各地に次々と拠点が作られた。しかし、乱獲によりクジラ・アザラシ・オットセイは19世紀始めにはその数を急激に減らし、捕鯨海獣漁は1850年代までに衰退していった。

 

 

【1807】マスケット銃が持ち込まれた。

殺傷力の高い武器を手にしたマオリ同士の抗争が激しくなった。また例によってヨーロッパ人が持ち込んだ病気が、19世紀のマオリの人口減少を招いた。

 

【1814】キリスト教布教開始。

 

【1825】ロンドンに植民地会社が設立され、ニュージーランドへの移民斡旋をはじめる。 イギリス投資家は近い未来に、NZはイギリスに併合されるだろうと予測していた。 アメリカではまだインディアンを殺している頃である。

 

【1835】オナウェ事件(イギリス人によるマオリの殺人事件)をきっかけに、イギリスはNZに法と秩序が必要と考えた。またマオリはフランス人が上陸し始めたので、イギリス国王の保護を求めた。イギリス人ジェームズ・バズビー駐在弁務官は、マオリ首長たちに独立宣言書に署名を行わせ、ニュージーランド北部にニュージーランド部族連合国を誕生させた。

 

【1840】先住民族マオリ族とイギリス王権 との間でワイタンギ条約締結。

イギリス政府から依頼されたホブソンが交渉した。

    1. 全てのマオリ族英国女王の臣民となりニュージーランドの主権を王権に譲る。
    2. マオリの土地保有権は保障されるが、それらの土地は全てイギリス政府へのみ売却される
    3. マオリイギリス国民としての権利を認められる。

マオリ首長たちは賛成派、反対派に分かれて議論したが、結局は南北両島の512人の署名を集めることに成功し、1840年5月12日、スチュアート島を含むニュージーランド全土がイギリス領となった。

翻訳の誤り(故意?)などから、マオリ側の認識は「全ての土地は自分達のもの」であり、一方で白人側は「ニュージーランドはイギリスの植民地である」と捉えていた。 

 

武器を与え、キリスト教を布教し、敵から守るとみせかけて土地を奪うイギリスの常套手段といえよう。NZはあっという間にイギリス領になってしまったのである。

 

 

以降、イギリスからの移民が激増、マオリ保有の土地を買い求めた。

【1860~1881】マオリ戦争。

移住者がマオリの土地を搾取し始め、戦争状態になった。マオリは相当強かったようだがイギリス軍には勝てず、イギリスの支配が確立された。マオリの土地は没収され生活苦と疫病のせいで、マオリの人口は1800年時の4割に減少した。一方、白人移民の人数は増える一方だった。

 

ここでマオリは終わった、、、はずだった。

 

【1890】総選挙で自由党が圧勝して政権を得る 。

ところが転機が来た。アイルランド出身のジョン・バランスが首相になり、NZで最初の政党である自由党が結成された 。彼は自給率を高めることや土地改革を進める中で、マオリが土地を保持する権利を支持したのだった。また、彼は北島のマオリを訪問し、その言語・文化を学ぼうと努力したという。

 

たぶん、マオリアメリカインディアンと同じ道を歩まなかったのは、このジョン・バランスの影響である。その理由は、本やネットを見ながら年表を書いていて、「あ~、アメリカと同じだな~」と思っていたところ、初めてマオリと対等に付き合おうという人が出てきた、それがジョンだからである。

 

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でも、今日は大晦日で、「ジョン・バランスって誰?」状態ですので、このまま書き続けることはできません。すみません、ソバを食べます。来年もよろしくお願いします。

つづく

(2019/12/31)